Please39「愛しているの気持ち」
ドクンッと心臓を不意に打たれ、カァアア――と急に熱が頭のてっぺんから沸騰する。
――いきなりなんで?
ドクドクと心臓が別の生き物のように暴れ出す。気が付けば一瞬だけ私の意識は途切れ、フラリと躯が傾いた。
「おいっ、レネット!」
慌ててアクバール様が私の躯を支える。なんとか私は意識を取り戻したけれど、頭の中はグルグルと渦が巻いていた。
「急にどうした? 顔を真っ赤にして逆上せているのか?」
「うぅ……」
私は沸騰してキャパを超えてしまったのだと分かっていたが、それを言葉にする事が出来なかった。そんな様子を見たアクバール様は突然、ご自分の膝の上に私の頭を乗せた! まさか膝枕をされている!?
「あ、あの?」
「起き上がっている方が辛いだろ? 暫くこのまま休んでいればいい」
こ、これでは益々熱が冷めません!
「さっきよりも顔が赤いな。もしかして熱があるのか?」
「ち、違っ」
否定する前にアクバール様が顔を近づけてきて、私は口づけでもされると驚き、咄嗟に目を瞑った。刹那、唇に感触はなくコツンと額に質量を感じる。
――な、なに?
瞼を開くと、アクバール様の顔が至近距離にあって視界が遮られていた。すぐに彼は私から離れ、安堵の笑みを浮かべる。
「熱はないようだな」
「あ、当たり前です! 初めから熱などありませんから」
「じゃぁ、何故顔を赤くしている?」
「このような体勢をされては恥ずかしいのです! 少し距離があるとはいえ、サルモーネ達にも見られていますし、彼女達も目のやり場に困ると思います」
「オレは全く恥ずかしいとは思わないぞ。オレ的にはもっと深くオマエに触れたいところだが、これでも人目を気にして抑えている」
これで抑えているなんて、もう私との価値観が違い過ぎる。
「それで赤くなった本当の理由はなんだ?」
「それは……」
『オレの事を愛しているか?』
思い出したらまた顔が朱色に滲んでいく。周りの赫々とした山々と良い勝負だ。
「アクバール様が変な事を訊いてくるからです」
「変な事など訊いた憶えはない。オレは真面目に訊いたぞ」
アクバール様の表情は至って真剣で、私はぐうの音も出なくなりかけたが、なんとか声を絞り出す。
「な、な、な、何故あのような事を訊かれたのですか!」
「ここ最近、オマエから愛しているの言葉を聞いてないからな。確かオレが王太子と明かしてからか」
「そ、それは……」
アクバール様が王太子だと明かされてから、自分の気持ちが分からなくなっていた。なんてそんな馬鹿正直な事は言えない。
「私が口にしなくても、お声でお分かりになるではありませんか」
上手い逃げ道を作った。これが何よりの証だ。アクバール様のお声が出るのであれば、それは私達の想いは重なっているという事だし、逆にお声が出ないとなれば、私の気持ちが離れているという事だ。
「そうだな。だが言葉にして貰わないと不安になるのだ」
「え? ……アクバール様がですか?」
「そうだ」
――信じられない。いつも自信に溢れる彼なのに。
アクバール様でも不安になる事があるなんて。それだけ私の態度が彼を不安にさせているのだろうか。
――ここで愛していると言っていいのだろうか。
確かに今はアクバール様の事を前向きに考えようとは思っている。でも何故か「愛している」の言葉を軽々しく言ってはいけないような気がしてならなかった。
「オマエはオレを愛していないのか?」
「……っ」
アクバール様の表情に憂いが帯びる。私がすぐに答えないから彼を不安にさせているのだ。
「妃殿下、ご気分が優れないのではありませんか?」
――え?
このタイミングでオルトラーナから声を掛けられて、私は仰天する。
「なんだオルトラーナ? オマエは空気が読めないのか。邪魔をするな」
「妙な誤解をなさらないで下さい。私は純粋に妃殿下のご様子に異変を感じて来たのですから」
あ~これは嫌な予感がする。二人の口論が始まりそうな。
「この状況を見ていたら、気を利かせるのが普通だろ?」
「いいえ、明らかに妃殿下の倒れ方が不自然でしたもの。お顔が赤くなっていらっしゃいますし、王太子からお離れになった方が気分も良くなりますわ」
そう言ってオルトラーナは私の躯を起こそうとしたのだが、彼女の手をアクバール様が払い退けた。
「馬鹿言え。これ以上、邪魔をするなら処罰を与えるぞ」
「それは権力乱用ではありませんか。私は妃殿下のご気分を確認致そうとしているだけです」
心配していた通り、やっぱり二人の口論が始まってしまった。
「王太子、そこまでになさって下さい。そしてオルトラーナもだ」
「サルモーネ……」
私は彼女の姿を見たらホッとして、自然と躯を起こした。サルモーネの顔は子供を叱る母親のようだ。アクバール様とオルトラーナの二人に目を向けると、二人とも不貞腐れた顔をしている。……複雑だ。
「はいは~い。有意義な時間を無駄にしてはなりませんよ~。次の場所へと移りましょう」
突然パンパンと手を叩く音が響く。クレーブスさんが空気の流れをガラリと変えようとしていた。
「もう一人空気の読めない奴がいた」
私の隣でボソッと呟くアクバール様のお声は大変不機嫌なものだった。
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私との時間に水を差され不機嫌だったアクバール様だが、馬車に乗る頃にはスッカリと機嫌は元に戻っていた。
――アクバール様には悪いけれど、あの質問 が流れて良かった。
私は困っていた話が流れてホッとしていた。
――あのまま水を差されなかったら、私はなんて答えていたのだろうか。
自分の事なのに全く分からない。ここで私は心が浮き沈んでいる事に気付いて、考えるのをやめた。それから馬車は走ること一時間ほどで、次の目的地へと到着した。そこはバザールで有名なメイフェイアだ。
アーケードの中に数千と店が並ぶ巨大なバザールであり、高級感ある建物と上質な商品が陳列され、商店のように気軽に入れる雰囲気ではない。ここは貴族の女性の中でとても人気のあるバザールだ。
勿論、私がそこを訪れるのは初めてだ。建物は精微な造りで、屋根はすべてステンドグラスが使用されている為、内部は美しい光と色彩が織りなす空間が作られ、高級感が漂う中でも活気に満ち溢れている。
買い物好きな女性には堪らない場所だと聞いていたが、なるほどと納得。髪飾り、ショール、ハンカチ、本の栞など、そういった可愛い小物が女性心をくすぐる。私は物欲が無い方だと思っていたが、品物を見ているとジワジワと欲が湧いてきた。
そして時間を忘れてスッカリと楽しんでしまい、そんな長時間をアクバール様は嫌な顔を見せる事もなく付き合ってくれた。それから一頻りの買い物を楽しんだ後、ふと目についたのがある画家が描 く姿絵だった。
ペンの色だけで描かれていて珍しい。私は無意識に立ち止まって、並べられている絵画を魅入る。どの絵も繊細なタッチでしっかりとした人物画が描かれていた。これだけリアルに描けるのであれば、色彩を入れればかなり売れるのではないだろうか。
「どうです? お嬢様も一枚お描き致しますよ」
「え?」
声を掛けられて気付く。白髪の老人 がいたのを全く気付かなかった。
――どうですと言われても……。
私はお金を所持していないし、描いてもらうとしても時間がかかるわよね?
「今なら特別なものをお付け致しますよ」
画家は何やら意味ありげに言った。
「特別なものというのは?」
「それは絵を受け取ってからのお楽しみです」
――なんだろう、気になる言い方だ。
私はチラッと隣に立つアクバール様に視線を投げると、彼はすぐに答えた。
「いいんじゃないのか?」
そう言ってくれた事だし、お言葉に甘えてみよう。絵が完成まで暫くは時間がかかるだろうから、その間、他の人達には自由に回ってきていいと伝えたのだが、アクバール様と近衛兵は私から離れなかった。
クレーブスさん、サルモーネ、オルトラーナの三人は少しだけ見て回ってくると言って離れた。それから思いの外、絵が早く完成した。ものの三十分もかからなかったと思う。それでいて何日も手掛けたような素晴らしい出来上がりに、やはり腕の良い画家だと思った。
「有難うございます」
私は完成した絵画を手にして、改めて画家にお礼をを伝えた。すると、
「そうそう、特別なものが付いておる」
画家は絵を描く前にも言っていた意味ありげな言葉はもう一度言った……のだが。
「あの特別なものとは一体?」
「もう始まります 」
「え?」
何が? と訊き返そうとした時、まさかの絵画がゆるゆると動き出した!
「きゃっ!」
私は驚きのあまり手元から絵を離す。スルリと絵は地面へと落ち、それからさらに信じられない光景が映る。人物画が紙から抜けて出てきた! そして影絵のような姿に変わって、クネクネと踊るように動いている!
「ひゃっ!」
「これは魔力か」
私は短い悲鳴を上げるが、アクバール様は冷静に事を判断している。
「なにこれは違法な魔法ではない。きちんと国から許可を貰った商売用の魔法じゃ」
ホッホッホッと楽しそうに笑っている画家(いや実際は魔導士なんだろうけど)だが、私は見慣れない魔法に恐怖心すら生じていた。それなのに影絵はいきなり私の手を取った。
「ひぃっ」
私は恐怖で悲鳴を上げるが、影絵は私を巻き込みながら、ワルツをするような足取りで踊り出す。
「ちょっ、な、なにこれ!」
クルクルとステップを踏まれ、しかもその場から大きく移動していく。
「おいっ、今すぐあれを止めろ!」
アクバール様はすぐに画家に止めるようお願いするのに、当の本人は悠長だ。
「ちょっとしたサプライズじゃ。時間になればあれは元の絵に戻る」
画家は答えたが素直にこの奇妙な現象を止めようとはしない。
――そ、そんなぁ~。
全然嬉しくないサプライズに私は憤りを感じたが、影絵は私を離さずにステップを繰り返す。いつの間にかギャラリーが出来るほど注目されているし、私はもう死ぬほど恥ずかしかった。そんな私の気持ちとは反して影絵は愉快な様子で、どんどんどんどん移動していく。
――一体この影絵は何処へ行こうとしているの!?
「レネット!」
慌てた様子でアクバール様と近衛兵が私を追いかけて来るが、影絵は逃げるようにして彼等から離れていく。
――もーう一体なんなのよ!こんな事になるなら絵なんて描いて貰うんじゃなかった!
と、今更後悔してもどうにもならない感情を爆発させる私であった。
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「もういい加減に止まってぇえええ!!」
もう何度この言葉を叫んだのか分からない。でも影絵は私を離す事なく、機械的にステップを踏んでいくだけ。気が付けば辺りは街外れの殺風景な場所へと来ていた。
――何処なのここは!
人気もなくこれはまたとんでもない場所にまで連れてこられたと、私の怒りはピークに達した。
「止まりなさぁああい!!」
私はありったけの声を爆発させて叫んだ。同時に拘束されていた躯が急に軽くなった。それは影絵がポンッと姿を消したからだ!
「きゃっ!」
急転した事態に私はまた叫んだ。その後すぐに空からヒラヒラと絵が降ってきて、綺麗に私の手の中へと収まった。私の怒りが届いたのか、それとも自然に時間切れとなったのか影絵は元の絵に戻ったのだ。
――シ――――ン。
静謐な空気に包まれて呆然とする私。
――なんだったの一体。……ハッ!
アクバール様と近衛兵が追いかけてきてくれた記憶はあるけれど、結局離れてしまった。途端に心が不安の闇に覆われる。
――こんな初めて来る場所で迷子になるなんて、私どうしたら……。
