Please40「燻る思いに決断を」
じわじわと心細さに蝕まれ、私は居ても立ても居られなくなり、その場から駆け出した。勘を頼りに元の場所を辿って走って行く。この辺りは街から離れた路地のようで、妙なほど人の通りがない。世界でたった一人になったような気分になる。
心細さや恐怖から解放されたくて、私はひたすら走り続けた。こんな場所に連れて来させたあの画家は大問題だ。今までだってクレームがあったのではないか。国から許可を得た魔法だと言っていたけれど、今となっては著しく怪しい……。
――!?
走る足が止まる。突然、私は何か を感じ取った。それは瞬く間に胸の内に不安を広げていく。これ以上進んでは駄目だとでも言うように。だが、私は息を潜めて進んで行った。
――ドクンドクンドクンッ。
心臓の音が加速し、耳の奥が強く打たれる。
――!?
周りの空気に異変を感じた。ピリッと鋭く不穏な。その時、私は信じられない光景を目にした。
――アクバール様!?
やっと人の姿を目にして安心出来る筈が一瞬で私は戦慄いた。アクバール様が凶器 を持った下卑た男達に囲まれている! 私は蒼ざめガクガクと震え上がった。
――ど、どうして賊が!!
話では聞いた事がある賊達だが、実際は酷く恐ろしい存在だった。
――た、助けなきゃ!
視線を巡らせるが近衛兵達の姿もなく、人の気配すら感じず、武器になるようなものもない。
――ど、どうしよう!
硬直して立ち尽くしていると、こちらに忍び寄る影が……。
――!?
賊の一人が私の姿を捉えていた。逃げようとしても躯が恐ろしく戦慄いて身動 ぎ出来ない。格好の的となっている私に向かって賊が真っ向に来た!
――もう駄目捕まる!
私は諦念し、きつく視界を閉じた。
…………………………。
――?
ところが何も起こらなかった。恐る恐る私は瞼を開いてみると、何処にも賊の姿がない。だが、アクバール様に向かってナイフを振り下ろされる恐ろしい光景が目に映った!
――アクバール様!!
私は彼の元へ駆けつけとしたが、足が竦んで一歩も動けなかった。アクバール様が殺されるかもしれないというのに声も上げられず、ただ状況を見つめる事しか出来なかった。
「アクバール王太子!!」
予想もしなかった出来事が起きた。果敢にもアクバール様を庇うようにして悪漢どもの前に出る女性が……あれはヴェローナさんだ!
「きゃっ!」
「ヴェローナ!!」
ヴェローナさんの左腕が切られた。彼女の白い肌から血色が滲む。腕を抑え苦痛に顔を歪ませる彼女をアクバール様が支える。予想外の出来事なのか悪漢どもは狼狽えた様子で顔を見合わせた後、一目散に逃げて行く。
「アクバール様!!」
すぐにクレーブスさんが現れた。さすがの彼も冷静さを失ってアクバール様とヴェローナさんの元へと駆け寄る。対して私は未だにその場から動けずに放心状態でいた……。
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アクバール様を庇って負傷したヴェローナさんだが、クレーブスさんの治癒魔法によって大事には至らなかった。アクバール様も無傷だ。ただ残念ながら賊を捕まえる事は出来なかった。
あの悪漢どもは身なりの良いアクバール様が辺鄙な場所に一人でやって来たところを狙ったそうだ。アクバール様は私を追いかけていた途中で近衛兵達と逸れ、そこにタイミング悪く賊が現れた。
そして何故あの場所にヴェローナさんがいたのか。彼女はアーケードで私とアクバール様の姿を見掛けて声を掛けようとしたが、私が絵を描いてもらっていた為、声を掛けづらかったそうだ。
その後、あの影絵の騒動で私を追いかけるアクバール様の後をヴェローナさんも追い、まさかの賊と遭遇。事件後、私達一行はただちに移動魔法を利用して王宮へと戻った。それからアクバール様はずっと事後処理に追われている。
まず近衛兵と従者のクレーブスさんが咎められた。賊が現れた時、何故王太子の傍を離れていたのか。あの時、アクバール様の危険が大きかった為、処分も比例して大きいと言われている。
またあのアーケードで絵を描いて貰った画家を調べたところ、商業登録がされていない違法な人物だと言う事が分かった。もしかしたらあの画家は……いや魔導士は賊と繋がりがあったのかもしれない。
そういった危険を見抜けなかった事も、クレーブスさん達の落ち度であると言われていた。絵を描いて貰おうとした私が悪いのに、すべて周りの人間が責任を取らされている。自分の何気ない行動がとんだ後悔を生んだ。
あの事件から数日後――。
私はここ数日間、部屋で休養させてもらっていた。部屋に籠っていると考えが同じ事ばかりで嫌気が差す。クレーブスさん達の処分の事やヴェローナさんの事。そして一番あの時 の事ばかりを考えてしまう。
アクバール様が賊に襲われそうになった時、私は恐怖のあまり足が竦んで動けなかった。対してヴェローナさんは自分の命も顧みずに、あの恐ろしい悪漢どもの前に出てアクバール様を守った……。
――どうして私は……アクバール様を守ろうとしなかったの?
もしヴェローナさんが現れなかったら、アクバール様はもうこの世にはいなかったかもしれない。アクバール様は我が国にとって大事な存在なのに、後悔が私の心を押し潰すように苛む。何度も何度も。結局、私は自分を守ったんだ。
本当にアクバール様を愛しているのなら、きっと自分の命など構わず彼を守っただろう。そして彼を守ったヴェローナさんはそれだけアクバール様を愛している。数日もそんな考えをしていたからか、私の中で燻っていたある思いが一つの決断をした……。
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「大丈夫ですか、アクバール様」
湯浴みを終え、寝台へと入って来たアクバール様のお疲れの顔を見て、私は声を掛けた。
「あぁ、大丈夫だ」
彼は柔らかに微笑んで答えたけれど、無理をされているように見える。
「あの、クレーブスさんと近衛兵の件は……」
彼等の処罰に関して私はどうしても責 を感じてしまい、アクバール様の顔を見れば問うていた。
「それについては処分なしで決まった。だからオマエが気に病む必要はないぞ」
「ほ、本当ですか!」
思いも寄らない朗報に私は身を乗り出して喜んだ。
「処罰は免れないと聞いていたので、本当に良かったです!」
「あぁ、これもヴェローナが手助けしてくれたおかげだ」
「え?」
アクバール様の口からヴェローナさんの名が出た途端、私はさっきとは打って変わって心に愁いが帯びる。
「ヴェローナさんのおかげというのはどういう事ですか?」
「オレがいくらクレーブス達を庇ったところでも、頭の固い重臣達は聞く耳をもたなかったが、第三者として見ていたヴェローナが説明して、やっと耳を傾けた。だから彼女のおかげだ」
仄かな笑みを浮かべて説明するアクバール様を目にして、私の中で何かがカッと爆発した!
「アクバール様!」
「どうした、レネット?」
私の態度の変わりようにアクバール様は驚いて見つめている。
「私は王太子妃として相応しくありません」
「なんだ急に? どうしてそんな話になる?」
私はヴェローナさんの存在を知れば知るほど、自分が非力だと思い知らされるのが辛かった。
「以前から考えておりました。これまで出来る限り王太子妃の勉強をしてきたつもりですが、根本的に私には素質がありません」
私にはブリッジの問題を解決する力も、賊からアクバール様を守る強さも、クレーブスさん達の処罰を回避させる力もない。でもヴェローナさんであれば持ち合わせている。怒りで煮え立つ私とは対称的にアクバール様は冷静だった。
「逆に問うがオマエが思っている王太子妃の素質とはなんだ?」
「そ、それは……」
急に問われて私は口篭もる。素質、それは……。
「国を支えられる器量や国を担う人達を守れる力がある事だと思います。残念ながら私にはそれらの力はなく、完全なお飾りの王太子妃となっています。それが私には堪えられません」
ずっと我慢していた感情をとうとう爆発させた。もうこれ以上、ヴェローナさんの活躍で自分が惨めな思いをするのは嫌だ。
「そうだな、確かに器量や守る力は必要だ。だが、今の時点でオマエに見切りをつけるつもりはない。まだオマエは数週間の勉強しかやっていないだろう。行き詰って音 を上げたようにしか見えないぞ」
「アクバール様は何でもそつなく熟せるので、そう言えるんです! 努力してもどうにもならない事もあるんです!」
私はカッと頭に血が上り、声を荒げて自分の言い分を押し通そうとした。
「レネット……」
静かに私の名を呼んだアクバール様の気迫に押され、私は口を閉じた。
「オマエは王太子妃に相応しくないと言う意味が、どういう事か分かっているのか?」
「わ、分かっています」
何を意味するのか、それは「離縁」の申し出となる。
「王太子妃の素質はともかく、オマエはオレの事を愛しているのか?」
――!?
い、いつか流れたあの話がまたこんな場面で出てくるとは思わなかった。きっとアクバール様は愛があれば乗り越えられるとか、そういう話しに持って行こうとしているのだろう。
「あ、愛だけでは王太子妃は務まりません!」
「そんな答えを訊いているんじゃない。オマエはオレの事を愛しているのか、いないのか、それを訊いている」
「それは……」
思い返せば私は命を張れるほど、アクバール様の事を愛してない。彼が賊に襲われた時の自分の行動で分かった。でもヴェローナさんは……彼女のアクバール様に対する想いは本物だ。そして王太子妃としての素質も十分にある。
――アクバール様の隣にいるべき女性(ひと)はヴェローナさんだ。
そこで私は決断した思いをアクバール様に伝える決意をする。
「私は……私はアクバール様を愛しておりません」
私が答えるとアクバール様の美しい顔が憂いに翳り、私の心を酷く突き刺す。そして互いが視線を逸らした。
…………………………。
何とも言えない澱んだ空気に息苦しい。やがてアクバール様が徐に口を開いたが、何も言わなかった。躊躇って言葉を嚥下したのだろうか。しかし……。
――?
「アクバール様?」
彼の様子がおかしい。口を開けて喉元まで抑えている。見ようには伝えたいのに伝えられないといった様子に見える。
――え? それって、ま、まさか!
ドクンッと私の心臓が跳ね上がる。とんでもない予感が思い浮かぶ。
「アクバール様、お声が出せないのですか!?」
私の問いにアクバール様は答えない代わりに、酷く眉間に皺を寄せている。
――やっぱり声を出したくても出せない!?
ドクンドクンドクンと自分の心臓が早鐘を打ち、額から汗が滲み出る。
――わ、私がアクバール様に愛していないと言ったから!? ま、まさかそれでこんな事が!
