Birth69「アトラクト陛下と魔女マアラニ」
誰しも時が止まったように思えたのではないでしょうか。何故、今この場所にアトラクト陛下がいらっしゃるのか、誰も把握出来ていないのですから。そこにいた皆が視線を陛下へと集中しておりました。
このような殺伐とした状況でも、陛下の威容を誇るお姿には恐れをなします。やはり普通の方とは明らかに存在が異なります。そして陛下は真っ直ぐと魔女の双眸を捉えていらっしゃいました。
「アティレル陛下…」
魔女の口元から陛下の名が零れます。彼女の目にはアトラクト陛下ではなく、アティレル陛下に見えているのでしょうか。一番驚駭しているのは彼女なのかもしれません。彼女に纏っていた怖気を震うような雰囲気が徐々に解かれていきます。
「もうやめてくれ。これ以上、私の大事な者達を苦しめないでおくれ」
「陛下…」
表情に悲痛の影が掠めて懇願をなさる陛下に、魔女が大きく動揺している様子が、手にするようにして分かります。
「頼む、マアラニ」
―――え?
魔女だけではありません、皆が凍り付いたように息を呑んだ瞬間でした。
―――「マアラニ」とは魔女の名でしょうか。
今の陛下の視線は紛れもなく、魔女へと向けられています。やはり魔女の名なのですね。
―――まさかとは思いますが、陛下は魔女との記憶をもっていらっしゃったのですか。
もしそうであれば、冷気に似た戦慄が背筋へと走ります。陛下はすべてをご存じで事を行っていた言う意味になりますから。辺りの空気がいやに強張り、緊迫としておりました。
「陛下、私の事を記憶にして…?」
誰もが思い浮かんだ事を魔女が口にしました。
「それは…」
陛下の胸に迫るような表情を目にして、私は悟ります。
―――あちらの表情はもしかして…。
「残念だが、アトラクト陛下は其方の事は憶えておらんかった」
―――え?
お答になったのはしゃがれた声のご老人でした。陛下の背後から現れた人物に、私は芯から驚きます。真っ白い厚手のローブを着衣され、印象深い厚い眉で双眸を隠していらっしゃる、この方は…。
―――ゼニス神官様です。
陛下に続いて思いもよらぬ人物の登場に、皆が頻りに驚きを隠せません。そんな困惑しきった状況の中で、神官様は陛下よりも前へと出られ、魔女と向き合われます。
「陛下はつい先程、其方との記憶が頭の中へと流れ込み、そこで初めてアティレル陛下の記憶を取り戻された」
「…では陛下はそれまで」
魔女が言いたい事を察します。彼女の思う事が事実であれば、堪え難い悲しみが迫り上がっているのではないでしょうか。そんな彼女に酷にも神官様は事実をお伝えになります。
「そうじゃ。其方にとっては酷な話だが、アトラクト陛下はアティレル陛下の、其方との記憶は消失して転生をなさった」
神官様のお答えに、陛下はやるせない思いからか、固く瞼を閉じられました。魔女はみるみると表情が崩れていきます。絶望に胸が苛まれていくような、そんな彼女を見ているこちらまでも、胸に悲しみが刻み込まれていく思いでした。
彼女にとって途方もない時を待ち続けていたのです。確証のない転生に望みを懸け、長い間ずっと一人で寂寞感と闘っていた事でしょう。果てしない時の流れに押し潰されそうになった事もあったのではないでしょうか。それでも彼女はずっと待ち続けていました。
600年という歳月が流れ、ようやく望んだ日を迎えられると思っていたのでしょう。ところが、そこに待ち望んでいた事は訪れなかったのです。最後の望みすら絶たれてしまいました。このやるせない思いをどう割り切れと言うのでしょう。
そして陛下の黄緑の双眸が開かれた時、魔女は陛下へ呵責にひしめく悲しみの表情をぶつけていました。ただ思うに彼女も本当は転生時に記憶が残らない事を分かっているのではないでしょうか。
「陛下、何故…」
胸に閊える思いが彼女を発言させてしまったのか、魔女の一言によって陛下の面持ちにより深い悲哀の影が落とされます。彼女の咎めが陛下の魂を裂けるような思いにさせたのです。
「すまない、マアラニ」
陛下はゼニス神官の前へと出られ、魔女と対面をなさります。向き合う陛下と魔女の姿に私は息を詰めて見守り、魔女が陛下と視線を合わせた時、酷く緊張が走りました。
…………………………。
僅かに微動する互いの瞳を見つめ合い、何を思われているのでしょうか。暫く視線を交えた後、唇を噛み締めていた魔女の口元が開かれました。
「陛下。私は突然に貴方とお逢い出来なくなり、深く嘆き悲しみましたが、何か貴方にご事情があおりだという事を察しておりました。そして真に私を愛して下さった事も、貴方が生涯他の誰とも愛を交わさずに死を迎えて下さった事で、すべてを悟りました」
「マアラニ…」
陛下の瞳が大きく揺らぎます。魔女はアティレル陛下の想いを誤解せずにいたのですね。生涯逢う事が叶わず、アティレル陛下はお亡くなりになるまで、ずっと気になさっていた事だったと思います。
アトラクト陛下の安堵の色を目にして、それがよく分かりました。魔女の言葉が胸に染みているのでしょう。陛下は胸元に手を添え、微動に震える唇をやおらに開かれます。
「私は死を迎える直前まで、其方が誤解をしているのではないかと気掛かりであった。決して私は故意に其方と逢う事を拒んだのではない。知らぬ間に宮殿には結界が張られており、魔女や魔法使いの出入りが出来ぬようにされていた」
陛下は瞳に深い悲しみの色を宿らせ、当時の悲痛な思いを語っていかれます。魔女からの視線を逸らさず、しっかりと瞳を捉えて語られるお姿に誠意が感じられました。
「結界に気付いた時、私は猛威を振るい抗議をかけた。だが、既に周囲には私と其方との関係は知られており、彼等は頑なに私の言葉には耳を貸そうとしなかった。私の考えが甘かったと言われれば、それまでだが、私は其方を迎い入れる事で魔女と共存する世界を築こうとしていたのだ」
一つ一つを物語るように想起なされ、次第に口調が重みを増していき、語るに堪え難いご様子なのが伝わります。そのご様子を魔女も片時の視線を逸らさず見つめ、受け止めていました。
「己を高く自負していたに過ぎなかった。気が付けば、其方とは離れ離れとなっていたのだから。せめて私に出来た事は他の誰とも愛を交わさずに生涯を終える事であった。それが其方に対する最期の愛の証となると思ったからだ。次代の後継者を誕生させる義務を放棄し、王の座を剥奪されようとも、私は其方への愛を守り通したかった。そして最期に、其方と来世で巡り逢える事を願い、私は息を引き取った」
「陛下…」
魔女の瞳に水膜が張っていきます。陛下の厳粛した面持ちが真率な想いを語っていらっしゃいました。その想いは魔女の心の芯まで届いているのです。そもそもお二人の悲恋には自信の責任はありません。
周りが陛下の立場と国の秩序を守る為に行ったやむを得ない事でした。国の主という立場上、一存で事が進められる程、甘くはなかったのでしょう。アティレル陛下の頃から深い歴史を紡いできた大国です。
魔女は零れ落ちそうな涙の重みに堪えられなくなり、固く目を瞑りました。複雑な思いが彼女の瞼を震わせ、頬から伝う涙は止めどもなく流れていきます。そんな彼女の様子に陛下は身を刻むような表情をなさって見つめていらっしゃいました。
―――このまま、お二人を和解させてはくれないものでしょうか。
私は胸に祈りを込めます。それは切望に近いものでした。
…………………………。
暫く沈黙に包まれておりましたが、魔女は震える唇を開きます。
「私は陛下の来世をずっと待っておりました。貴方がお亡くなりになってから、600年のもの歳月が過ぎた頃、地上でアティレル陛下と瓜二つの御子が誕生した事を耳に致しました」
今度は魔女が遥か遠い昔から現世へと記憶を辿り、心に秘めていた想いを打ち明けようとしていました。
「ようやく私の願いが叶う時が訪れたのだと思いました。やっと貴方と一緒になれる日が来たのだと。私はすぐに逢いに行きたかった。でも現時の情勢で私のような魔女は容易に地上へ姿を現す事が難しくなっておりました。魔物の勢力が上がった事により、魔女も魔物とみなされ退治をされてしまう世です。退治をされてしまえば、身も蓋もありません。ですので、私は貴方が見つけて下さるのを待つ事に決めました。貴方ならきっと見つけて下さると信じておりましたから」
顔に暗鬱な陰影を掠める魔女の思いを私は察してしまいました。彼女が暗然たる思いに沈んでいるという事を。
「ですが、何十年と待っていても、貴方が現れる様子は窺えなかった。貴方の記憶が私を憶えていらっしゃるのか、不安になる時もありました。ですが、魔女が姿を現す事が難くなった時代の為、私を探し出す事が困難であるのではないかと思い、私はひたすら待ち続けていたのです。私には待つ事しか出来なかったのです。それに貴方が約束を果たさない筈がないと信じておりましたから」
深みに沈んでいく彼女に、これ以上の話には耳を塞ぎたくなります。そして魔女は陛下から視線を逸らしましたが、陛下は片時も視線をお外しにはなりません。
「時は流れ、陛下が成人を迎えられた頃です。陛下の婚姻される日がやって来るのではないのかと私は覚悟をしておりました。ところが、数十年と経ちましても婚姻の話を耳にせず、私は再び期待を抱いてしまったのです。陛下はまだ私を探して出して下さっているのではないかと。しかし、その数年後には見事に私の期待は砕かれました。陛下はダーダネラ王妃様と婚約をなさったのですから」
陛下と王妃様の表情が共に憐憫に翳られるのを目にしました。お二人は同じ気持ちを抱いたのだと思います。魔女は素直な気持ちを吐露し続けます。
「陛下の現実を思えば、仕方のない事だときちんと割り切っているつもりでした。婚姻を耳にしても、ダーダネラ王妃様をお妃に迎えられた事も、すべてそれは陛下の世界では正しい出来事であると、そう思っておりました。ただ長い長い時を刻み続け、報われる事のない思いは何処をともなく浮遊し、私の心はもう枯れたように生気が失われていました。そして追い打ちをかけられるように、私の耳に入ってきたのは陛下が御子を授かったというお話でした。そこで私の心は完全に壊れてしまったのです」