第五十五話「不思議な声に誘われて」
「ひっぐ、えっぐぅ」
今はシャルトとの勉強会の時間であったけれど、私は感情を抑えられず、ずっと涙が溢れてボロボロの状態だった。こんな風になってから、今日で三日目となった。そう、三日前に起こった「チナールさん妻子持ち」事件からだ。
「…………………………」
私の隣に座っているシャルトは言葉を失っているようで、泣きじゃくる私を見つめているだけだった。シャルトには悪いとは思いつつも、あの衝撃的な事実から湧き起こる悲しみはどうしようもなかった。
だってチナールさんに奥さんとお子さんがいるってわかるまで、私ずっと彼と一緒になれるって思って喜んでいたんだもん。それなのにこんな事ってないよ。いきなり崖から突き落とされたような大ショックで、すぐには立ち直れない。
チナールさんから事実を聞かされた後、私は記憶が曖昧で部屋に戻ってから、ひたすら泣いていた事だけは憶えている。仕事から帰って来たキールは私の姿を見て、驚愕して何事かと問うてきた。
「キールはチナールさんに奥さんとお子さんがいる事知ってたの?」
しゃくり上げなから問う私に、キールはすぐに答えた。
「知らなかった」
「そ、そうだよね。知ってたら私に教えてくれてたよね。ひっくっ」
私は益々悲しくなって、その後もひたすら泣きまくった。キールはなにも言わずに、私をそっとしておいてくれた。そして翌日からシャルトとの勉強会もろくに身が入らず、今の状態へと陥っていたのだ。
「千景……」
ずっと口を閉ざしていたシャルトが声をかけてきた。もういい加減、勉強を再開させてくれと言いたのだろう。
「今日の勉強会だけど、宮殿の外に行こうと思うの」
「え?」
シャルトからの想定外の言葉に、私は一瞬涙が止まる。
「え? いいの?」
「宮殿の中にいても、気晴らしにはならないでしょ? キールからも今日もアナタが悲しんでいるようなら、外に出して気分転換をさせて欲しいと言われているわ」
「そうなの? キールから?」
キールの名前を耳にすると、胸がキューンとなった。
「今回はキールも一緒に来てくれるの?」
「残念だけど、今はかなり仕事が立て込んでいるから難しいわ」
「そっかぁ」
シャルトの答えに、私はまた悲しさが込み上げてきた。
「キールの方がいい?」
シャルトは優しい瞳をして訊いてくる。純粋に彼は私を心配してくれているのだ。そんな彼に対して、私はキールの方がいいなんて思わなかった。
「大丈夫。シャルトと一緒に行く」
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シャルトと宮殿の外へと出たのは今回でニ回目となる。一回目はスーズと出会った日だった。スーズ元気にしているかな? ついこの間の事なのに、もう随分と前のように感じる。
そう思ってしまうのも、やっぱりチナールさんの件のショックが大きいからだよね。私は無意識の内に、大きな溜め息をを吐き出してしまった。その姿をシャルトから痛々しい目で見られた。
「千景、またお土産さんでいい?」
「うん、いいよ」
今なら場所は何処でもいい気分だった。人混みの中に入れば、少しは気が紛れるだろうし。私はシャルトの後に続いて歩き出そうとした時だ。
――助け……て……くれ、苦し……い……!
「え?」
突然、頭の中へと響いてきた声。私は目を見張って驚き、その場に立ち尽くしてしまう。そんな私の異変に気付いたシャルトは、
「千景、どうしたの?」
神妙な顔つきとなって問う。
「今、頭の中で男性の苦しそうな声が聞こえたの。“助けて”って」
「え?」
「本当だよ!」
私の言葉にシャルトは戸惑いの表情を見せる。
――誰……か…お……願いだ! 助け……てくれ!
あ、まただ! さっきよりももっと苦しそうにして助けを求めている。
「シャルト、また聞こえてきたの! 誰かが助けてって」
「私にはなにも聞えないんだけど。術者の私であれば、同じ声が聞こえる筈なのに」
「確かに聞えるんだって」
「……わかったわ。でも何処から聞こえてくるのかわかる?」
「えっと……」
頭の中へと直接聞こえてくるから、何処にいるのかがわからない。どうしたらわかるんだろう?
――アナタは何処にいるの!
私は苦しそうな声に問うてみる。すると……何処からも声は聞こえてこないのだけど、何故か声の主の「気」を感じていた。
「シャルト、多分あっちの方だと思う」
明確ではないが、私は南の方角を指して現した。
「そっちの方はあと数メートルで安全圏内から外れるわ。王からの許可がなければ、先へ行く事は許されていないの」
「そんな」
――あぁ、このまま誰にも知られず死んでしまうのか。誰かに見つけてもらえさえすれば、助かるかもしれないのに……。
「シャルト! 声の主は死にかけてるの! 今見つけてあげれば、スーズの時みたいに助かるかもしれない!」
「でも……」
「知ってて見殺しには出来ないよ!」
私の言葉と掟との間に葛藤するシャルトの表情は深く苦渋していた。そして彼の出した決断は……。
「わかったわ。行きましょう。でも、はい」
「え?」
いきなりシャルトは私の前に右手を出してきた。
「なに?」
「アナタも手を出して」
言われた通り手を差し出すと、その手をギュウとシャルトに握られた。
「絶対にこの手を放さないようにしてね」
私はビックリしたけど、シャルトの真剣な表情を目の前にして静かに頷いた。手を繋いだまま私は声が聞こえた方角へと、シャルトを連れて向かって行く。
先に進むにつれて、シャルトの表情がより険しくなっていく。多分さっき言っていた安全圏から外れるから、彼の緊張感が高まっているのだろう。危険が潜んでいるのかもしれない。その緊迫感した空気を私も感じていた。
……………………………。
暫く私達は神経を尖らせながら、声の主を探していた。
「千景、本当にこっちでいいの?」
「うん。確かに気を感じるんだけど、まだまだ先のようにも感じる」
「これ以上、迂闊に路地を歩くのは危険だわ。千景、空から行くわよ」
「え?」
スーズを助けた時もシャルトはスーズを担ぎ、飛躍して宮殿へと戻ったんだけど、また飛ぶのかな。なんかシャルトとお出かけの時はやたら多い。
「わかった」
「こんな頻繁に飛躍するのを知られたら怒られるんだけどね」
「そうなの?」
「術者の特別な力は個人的な使用を禁じられているのよ。悪用防止の為にね。使用するには許可が必要なのよ」
「そうなの?」
「でも仕方ないわね。人助けのであれば王も許してくれるでしょ」
「そうだよ」
私はシャルトと共に人気の少ない路地へと向かい、周りに人がいない事を確認すると、フワッと躯を飛躍させ、空へと舞い上がって行った……。