第六十八話「悲しき戦争の始まり」
「あの人はどこまでも救いようがないよ」
アイリッシュさんはかつて見せた事のない非常に厳しい表情で吐いた。私とキールはとんでもない出来事が起きたと、真っ先にアイリッシュさんを呼び出し報告した。真夜中であったが、アイリッシュさんはすぐに駆けつけてくれた。
キールと契りを交わそうとした時、突然に私の胸元へと現れた模様は「禁断の刻印」と呼ばれるものであった。これは術をかけた当人以外の者に契りを交わせない命を懸けた呪術であった。
この刻印がある限り、私はキールと契りを交える事が出来ない。この刻印を解くにはマキマキ王と契りを交わすか、もしくはマキマキ王の命を手掛けなければならないのだ。
キールも私を他国の王に略奪される心配はあったが、この呪術だけは私にはかけられなかったそうだ。私はさっきからずっと心臓の音が乱調子で、気が狂いそうになっていた。早く解決策を見つけたい、その一心だった。
「あの時、マキシムズ王が千景をアッサリと返した事がずっと心に引っかかっていた」
「確かにそうだね。あの王だ。力ずくで千景を物にしようとする筈なのに、容易に手放したのは、どうも腑に落ちない事だったよね」
キールとアイリッシュさんのニ人の会話を耳にして、私はマキマキ王が最後に告げてきた言葉を思い出し、大きく身震いした。
――いずれ貴女は私の元に戻って来るであろう。
あの時の言葉はこういう意味があったのだと……。
「あ、あの!」
ニ人の深刻な会話に、私は身を縮める思いで入った。
「本当にこの刻印を解くにはマキマキ王の命をもらうしかないんですか!」
「残念だけど、それしか方法がないんだ」
「そんな……」
アイリッシュさんの決然とした答えに、私は絶望へと落ちていく。やっと、やっとキールと心が結ばれたというのに、待っていたものは幸福ではなくて絶望なの? それにだ……。
「マキマキ王の命をって……」
どうやって……もらうの?
「戦争だ」
「え?」
――ドクンッ。
不意に心臓を突かれたような衝撃が走る。キールからとんでもない言葉が飛び出し、私は耳を疑った。今なんて? 血が通っていないのではないかというほど、躯が固まっていた。
「そうだね。おのずとそうなるね」
アイリッシュさんまで同意なの? だって戦争って人と人が命を懸けて戦う事だよね? それをそんな安易に決めてしまうものなの?
「こちらから果し状を出そう」
「ま、待って! キール、そんな安易に言わないで! 戦争って人の命が懸かっているんだよ!」
「千景、君の言いたい事はわかるよ。でもね、このままマキシムズ王を野放しにしていても、向こうから戦争をけしかえられるのを待っているだけなんだ。こちらから行くか待つかで残る道は戦争しかないんだよ」
「そんな……」
アイリッシュさんから厳酷な現実を叩きつけられ、私は茫然となった。決して避けられない戦争なの? そんなこの平和主義国のバーントシェンナが戦争をす始めるの?
「あの王とはいずれこうなるような気はしていたよ。あの人はどこまでもこの国を苦しめているからね」
アイリッシュさんから耳を打ち震わす意味深な言葉が洩れ、私の心にさらなる不安を扇いだのだった……。
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戦争の知らせはバーントシェンナ国を恐怖に震撼させた。この何千年もの間、一度も戦争が起きた事のない平穏な大国に突如襲った恐ろしい現実。人々は恐怖へと陥っていた。
それからバーントシェンナ国からマルーン国へ果し状が出された。バーントシェンナ国王の婚約者に手をつけ、さらに禁断の呪術をかけた恥辱な行いに戦の申し出を受けよと。マルーン国側は躊躇う様子も見せずに、申し出を受け入れたようだ。
それからというもの、あの穏やかで暖かいバーントシェンナ国はまるで闇に支配されたかのように、暗く厳しい現実と向き合う事になる。笑い合う日常は消え去り、死の恐怖へと怯えるようになった。
そうなるのは当たり前だった。何千年もの間、戦のないこの国の武力は他国よりも遥かに劣る。戦勝するには非常に不利であった。すなわち敗戦となるのがわかっていて、血を流さなければならないのだ。
私は毎日、後悔の念に苛まれていた。なんでキールへの気持ちにもっと早く気付かなかったのだろうかと。私が気持ちをぶつけていれば、キールと契りを交わし、今頃この国は平和に守られている筈だった。
今頃その後悔に縋りついても、仕方ないのは重々にわかっている。でもまさか自分の行いの一つで、この国を恐怖へと陥らせた罪は重かった。これから私はどうしたらいいのだろうか、なにをすべきなのか。
「戦争」それは人々の命を奪う場所。民衆の人々は勿論だが、キールやアイリッシュさんの参戦も免れなかった。もしかしたらキールを失うかもしれない。それを考えると、私は夜眠る事が出来なかった。
それと戦争の話が出てから、シャルトとの勉強会は休みになった。代わりに戦争の準備に携わらなければならなくなり、気の重さは半端なかった。愛する人を失う可能性がある戦争の準備なんて関与したくない。
そんな私の思いは虚しく、今日も戦争の準備を行っていた。私はほぼ無感情で作業をしていたが、ふとシャルとの姿を目にすると、無意識の内に声をかけていた。
「シャルト、なんでこうなっちゃったんだろうね。私がもっと早くキールへの気持ちを伝えていれば、良かったんだよね」
そうなってしまった結果を今更どうこう言っても仕方ないのはわかる。でもどうしても、その後悔だけは前向きに考えられないのだ。
「違うわ。アンタ達が契りを交わそうとした時に、私は邪魔をしてしまったし、それに街へ散策した時も、私がもっと注意を払っていれば、こういう事にはならなかったのよ」
シャルトの思い詰めた様子を目の当たりにして、彼もまた私同様に後悔の念に苛まれているのではないかと察した。
「シャルトはなにも悪くないよ。散策の時は私がシャルトを巻き込んだんだから、自分を責めないで」
私は涙ぐみながら伝えた。シャルトにこれ以上の悲しい思いをさせたくない。
「有難う、千景」
シャルトは私の頭を撫でながら、静かにお礼を伝えてくれたのだった……。