Please31「動き出す歯車」




 最初のレッスンを終え、次のレッスンへと向かう途中の出来事だった。

「レネット妃殿下、大丈夫ですか? お顔色が宜しくありませんね」
「そ、そう? 私は大丈夫よ」

 サルモーネの嘘を見抜くような鋭い視線から、私は逃げるようにして答えた。

「いえ、サルモーネの言う通りですわ。少しお休みになった方が宜しいです」

 いつも呆気らかんとしているオルトラーナからも、真面目な顔で言われてしまい、二人の目を誤魔化せそうもない。ここは素直に従おう。

「そしたら何処か休める場所はあるかしら?」
「近くに温室ハウスがございます。そちらで少しお休みになりましょう」

 私が問うとサルモーネからすぐに答えが返ってきた。このレスポンスの速さ、さすが切れ者だ。

「分かったわ。そこまで連れて行ってくれる?」
「承知致しました。オルトラーナ、次の教師に妃殿下が遅れる旨を伝えてきてくれ」
「えぇ、分かったわ」

 サルモーネの依頼をオルトラーナは引き受け、私達から離れた。

 ――こうなるから気が引けたのよね。

 あぁ、気が重くなる。私がレッスンを受けるのが嫌で逃げているのではないかと、教師達にあらぬ疑いをもたれるような気がしてならない。とはいえ、後悔しても事は進んでしまっている。素直に諦めよう。

「では私達は温室ハウスへと向かいましょう」

 サルモーネから言われ、私は彼女と近衛兵達と一緒に温室ハウスへと向かったのだった……。

*✿*。.。・*✿*・。.。*✿*

 温室ハウスは想像以上に規模が大きく、顔色が悪い事なんて忘れてしまうほど凄かった。外観は三つのドームを重ねたような形をしており、入り口を通って中へ入ると、広く開放的な場所となっていた。

 そして見事な造形美であり、池や噴水、小さな滝、咲き乱れる花々、精巧な造りの螺旋階段など、美しく調和の取れた大温室である。そして高温水によって温められた珍しい熱帯の花や植物に目が惹かれ、ハッと見惚れてしまうような花園となっている。

 石造りのモザイクが美しい螺旋階段を登っていくと、心地好い風が吹き抜け、遠くの景色を眺める事が出来る。上段には芝生の広場があり、その周りに立つ木々には爽やかなフルーティの香りを漂わせる木の実がなっている。

 私は芝生の広場の中にある東屋ガセボで休む事になった。サルモーネ達には悪いと思ったけれど、ベンチには一人で休みたいと伝えた。少し離れた所に彼女と近衛兵達は立っている。

 正直近くにいられると、気が休まらないのだけれど、こればかりは仕方ない。周りに囲いと屋根が付いているおかげで、ガッチリ見張られている訳ではないのが救いだ。素敵な温室なのに、私にはズンと鉛のような重荷が躯に圧し掛かっていた。

 今の生活は本当に気が滅入ってしまう。頑張ろうという意思があっても、それに躯がついていけてない。その為、食事もままならない。原因の一つに考えられるのは王太子妃に課せられる厳しい勉学だ。

 たった数日で決めてしまうのは情けない話だが、私には王太子妃としての素質が無いのではないかと思う。レッスンによっては回を積んでも見込みのないものもある。ここで求められるレベルは完璧だ。

 ――私には完璧は無理。それに例の魔法使い・・・・の存在も怖い。

 今の段階であの魔法使いの詳細は分かっていない。アクバール様もクレーブスさんも懸命に魔法使いを探しているのだが、決定的に繋がるものがない。考えてみれば二十年もの月日をかけても、見つけられなかった相手だ。

 アクバール様の「守る」という言葉を信じていない訳ではない。でも常に何処かであの魔法使いから監視をされていると思うと、夜も眠れなくなるほど怖くて堪らないのだ。そんな夜だが、毎日私はアクバール様から抱かれていた。

 何もアクバール様も性欲だけで私を抱いている訳ではない。私の事を心から心配し、慰めも励ましもしてくれる。彼が私を優しく腕の中に包み込むと、自然と性行為が始まる流れになっていた。

 そこにアクバール様に対する自分の愛情があるのかどうかが曖昧だった。今の私はとても甘い気持ちでエッチ出来る精神はないし、アクバール様との行為は恐怖を埋める為の縋りにしか思えなかった。

 ――本来は愛情あっての行為の筈なのに……。

 自分の気持ちがよく分からない。アクバール様の事を心から愛していれば、もっとレッスンも前向きに考えられるのだろうけれど、後ろ向きに考えてしまうはやっぱり彼に対する愛情が、きちんとした形になっていないからではないだろうか。

 ――とにかく王太子妃の勉強も魔法使いからも、そしてアクバール様からも、何もかもから逃げ出したい。

 それが今の私の正直な気持ちだった。かなり精神が追い詰められている。

 ――?

 ふと何か気配を感じ取って、私は背後へと振り返った。見知った顔の人物が目の前に立っていて吃驚する。

「バレヌさん……」

 数日前に行われた祝宴会で会った彼だ。彼は私が入ってきた正面とは反対側の入り口から入って来た。今日の彼は祝宴会の時とは違い、落ち着いた色の礼服を着ていて大人びて見える。そして清潔感のある感じは変わらなかった。

「バレヌさん、この間の祝宴会の時は助けて下さり、有難うございました」

 私は立ち上がって先日のお礼を伝えた。

「いえ、とんでもございません。あの時に王太子からもお礼を頂いておりますので、改めておっしゃって頂く必要はございません」

 彼は申し訳なさそうな様子で応えた後、すぐに別の話題に入った。

「レネット妃殿下、こんな所でお休になっておられるのですか?」
「えぇ。少し休憩をしています」

 私が答えるとバレヌさんの顔がみるみると曇っていく。

 ――どうしたんだろう。私の顔が変?

「やはり私の見間違いではなかったようですね」
「何がですか?」
「祝宴会を終えた翌日から、時折妃殿下をお見掛け致しますが、どうもお顔が優れないようですね」
「え?」

 核心を突かれたような言葉を受けて、私の動揺が始める。

「そ、そうでしょうか。まだこちらでの生活に慣れておりませんので、戸惑ってしまう時があるのかもしれません」

 上手く誤魔化せたとは言い難いが、私は無難な言葉を選んで答えた。

「妃殿下、実はかなりご無理をなさっているのではありませんか?」

 そうバレヌさんから返され、やはり全く誤魔化せていないのかと焦る。サルモーネやオルトラーナにも見破られているし、そんなに私は顔に出やすいのだろうか。いや、他の人達からは気遣われなかったから、バレヌさんとサルモーネ達が鋭いだけなのかも。

「妃殿下。恐縮ではございますが、お隣に座らせて頂いても宜しいでしょうか?」
「え、えぇ」

 バレヌさんの改まった様子と隣に腰を掛けられ、私は妙に緊張していた。やっぱりアクバール様以外の男性が近くに来られるのに抵抗を感じてしまう。そんなよそよそしい私の様子に気付いていないバレヌさんは早速口を開いた。

「私のような者が差し出がましい事を申し上げる事をお許し下さい。妃殿下、今この王宮にいらっしゃる事は貴女が望まれた事なのでしょうか?」
「え?」

 ドクンと私の心臓は強く波打った。とても力強い眼差しを間近にして、私の緊張が強まっていく。

「あ、あの、何故そのような質問を?」
「私は短い時間での貴女しか見ておりませんが、妃殿下のご無理をなさっている様子から、今の生活が前もっての覚悟がおありだったとは思えません。また大変失礼ながら、貴女の気質から考えましても」
「そ、それは私では王太子妃に相応しくないという意味ですか?」
「そういう意味ではありません。ただ貴女の性質から、事前にこのような生活が待っているとお分かりであれば、この道をお選びになったのかと思いまして」
「え?」

 ここでまた私の心臓は強く打たれた。バレヌさんには心を見透かれているようで怖い。

「それにそれなりの覚悟がおありであれば、今のような状態にはなっていらっしゃらないかと思います」

 私はゴクリと息を呑む。

 ――何故こんなにも分かってしまうのだろうか。

 あまりに的を得ていて怖い。私は何も答えられなかった。安易に人に教えて良い話ではないもの。

「ただの私の思い過ごしであれば、非礼極まりのない話です。心からお詫びを申し上げます」

 私の困惑している姿を見て、バレヌさんは頭を下げてお詫びを言葉にした。私は謝らなくていいと伝えたかったが、彼の言葉を肯定してしまうような気がして言葉に出来ない。

「ですが、妃殿下」

 話は終わりのように見え、実はまだバレヌさんの中では終わっていなかったようだ。彼の瞳から燃え上がる炎のような強い意思が見える。

「もし私の言う事に当てはまる部分がおありであれば……早い段階で王太子の元から離れるべきです」
「え?」

 こればかりは平静を装う事が出来なかった。だってバレヌさんの言葉はあまりにも重大だ。ドクドクドクと心臓が一気に早鐘を打つ。

「勿論、王太子を想う妃殿下のお気持ちもあります。ですが、愛だけでこの先の状況を切り抜けられるほど、この世界は甘くありません。現に我が国も他国でも王族へと嫁いだ女性が、精神的病から早死にされた例も珍しくはありません」

 生々しい話に私の喉元がゴクリと鳴った。精神的病、今の私にも該当しているから、より現実的に感じた。自分だけの事を考えれば、離れる事も視野に入れたかもしれない。でも私にはそれが出来ない決定的な縛りがある。

「私は王太子から離れる訳にはいきません」

 私は決然として答え、意思の強さを伝える。

 ――私が離れてしまえば、アクバール様は再び失声となる。

 私の軽率な行動で大事おおごとを起こす事は出来ない。せめて魔法使いを見つけて、アクバールの呪いを完全に解いてもらうまでは。事情をバレヌさんに話す事は出来ないけれど。ここで予想外の答えが返ってきた。

「王太子にかけられた呪いがあるからですか?」
「!? ……何故その事を貴方が知っているのですか!」

 呪いの件はごく一部の人間しか知られていない。そんな重要な事を何故、バレヌさんが知っているのか。彼に対して不審感が湧いてくる。

「そう警戒なさらないで下さい。王太子の呪いの件は一部の人間は存じております。その中の一人が私です」
「貴方は一体何者ですか?」

 まだ彼に対する疑念を解く訳にはいかない。もしかしたら彼は「陛下派」の可能性もあるのだから。

「私は決して貴女に害を与える人間ではございません。そもそも私は陛下派でも王太子派でもない中立派の人間です。少し説明をさせて頂きますが、中立派は何も陛下派と王太子派の派閥を傍観している訳ではありません。両派が爭う事で国が乱れないよう調整役を担っています。また私は法務省の人間でもありますので、行政機関を管理する役目もございます」

 ――バレヌさんが法務省に所属?

 法務に関する国の執政を遂行する行政機関で、最も難易度が高く優れた省だと聞く。バレヌさんがそんな凄い人だったとは。

「本来、王太子妃となる方は我々の目も含めて決めさせて頂いております。ですが、王太子は独断で貴女をお選びになった。貴女に不満があるという訳ではございません。しかし、王太子妃として相応しい相手を私達は国の為にも選ばなければなりません。そして呪いについてです。貴女は王太子への心が離れてしまえば、彼がまた失声を患うとお思いでしょうが、その心配はございません」

 ――え?

 私は顔色を変える。心臓の音がいやに騒ぐ。脈拍数が速くなって少し呼吸が苦しいぐらいだ。

「それはどういう意味ですか?」
「王太子に相思相愛の相手がいらっしゃれば良いのでしょう。それは妃殿下、何も貴女でなくても宜しいのです。王太子がまた別の女性を愛すれば、貴女は彼から離れる事が出来ます」





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