Please29「見知らぬ世界で」
私は辺りをグルリと見澄ますが、該当する人物が何処にも見当たらない。周りの人間の動きは止まったままだ。この異様な光景の中で唯一聞こえた声に、縋りたい気持ちはあるが、それよりも恐怖心の方が大きかった。
「おやおや、これはどういう事でしょうか。何故、貴女には私の声が聞こえるのでしょうか」
得体の知れない相手の反応が恐怖で堪らない。決して足を踏み入れてはいけない領域に入ってしまい、絶対に見つかってはならない人物に見つかってしまったような、そんな感覚だった。
…………………………。
何も私は答えられなかった。答え方で危険が迫ると思ったからだ。心臓が悲鳴を上げるようにドクドクと走り出す。
「貴方には全く魔力がおありではなかった筈。それはあの魔導師の力ですか? ……それとも王太子の?」
――え?
あの魔導師が誰なのか分からないし、王太子ってアクバール様の事を言っているの?
「何もお答えにならないのですね。……あぁ、何もお答えが出来ませんか」
私が考えている間に相手は勝手に納得した。
――一体なんなの?
相変わらず相手の姿は見えず、声だけが響いていた。
「まぁいいでしょう。私の存在はどんな優れた魔力をもつ人間でも分からない筈ですが、それを貴女は感じ取った 。これは非常に興味深い事です。今後、貴女の事はしっかりと目に留めておく事にしましょう」
――え? め、目に留めておくってどういう意味なの? まさか、か、監視するって事?
「あ、貴方は誰なんですか!」
込み上げてくる恐怖を振り払おうと、私は虚勢を張るように声を張り上げた。
「私? 私ですか? お知りになりたいのですか?」
――!?
本能が警告を鳴らす。決して見てはならない と。……でも背後から気配を感じて、反射的に私は振り返ってしまった。
――あ……。
ゆらりと揺れる黒い影にブルリと震え上がる。影は徐々に明るみに出てきた。ピーと耳鳴りが警告する。決して、決して見てはならないと。
「……っ」
叫ぶ事すら出来ない本当の恐怖。相手の顔を見た瞬間、恐怖が最高潮に達する。中性的に見えた顔の約半分が爛れていた。それも薬品か何かを被ったような酷い爛れ方で見るに堪えない姿だった。
「ぁ……ぁ……」
私は声にならない声を零しながら、無意識の内に後退していく。
――怖い怖い怖い!!
全身が恐怖で戦慄く。私は得体の知れない恐怖に耐えられず、固く瞼を閉じた。その瞬間!
「…………ト」
「……ネット」
「おい、レネット!」
名前を呼ばれながら、ガクガクと躯が揺れていた。
――はっ!
先程の闇の世界とは打って変わって、視界が眩い光に包まれていた。急な展開の変わりに思考が追いついていない。
――ここは……?
祝宴会の広間 だ。……どういう事? これは現実? さっきまでのあの異様な黒い光景は何処に行ったというの? まだこれが現実だと受け入れ難い私は周りを不自然なほど、キョロキョロと見渡す。
――これ現実よね?
意識は明瞭だ。豪華絢爛な広間で人々は優雅に祝宴会を楽しんでいた。時が動いている 。数秒前までのあの恐怖体験はなんだったの? 一時的に悪夢を見ていただけ? まさかそんな……。
――私、大丈夫なの?
あんな悪夢を見た自分がとても正常とは思えない。私どうしてしまったの?
「レネット、大丈夫か? どうした、何があった?」
取り乱しそうとなった時、聞き覚えのある声に話し掛けられ、私は相手の視線を捉えた。
「……アクバール様?」
間近に彼の顔があって酷く懐かしさを感じた。ほんの数十分離れていただけなのに、もう何年も会っていなかったような気がする。
「あぁ、オレだ。顔色が優れないぞ、何があった?」
ジッと覗かれながら問われる。思考が上手く回らず説明に躊躇っていたら、ふとアクバール様の背後から、私を庇ってワインをかけられた男性の姿が見えた。
「そ、そちらの男性が私を庇って、ワインがかかってしまったんです」
思わず「ワインをかけられた」と、言いそうになったが当たり障りのない言葉を選んで説明した。私の言葉でアクバール様が後ろへと振り返る。
「貴方は?」
男性が他国の人間の可能性もあるからか、アクバール様は丁寧な言葉で問う。
「お初にお目にかかります、アクバール王太子。私は我が国の法務省に所属するバレヌ・ブリュスと申します」
「あぁ、うちの人間だったか。済まない、この二十年の内に入った人間の事はまだ把握出来ていない」
「いえ、お気になさらずに。昨日こちらにお戻りになったばかりですし」
「あぁ。それよりもその赤ワインはどうした? 聞くに妃殿下を庇ってかかったそうだが」
「はい。貴賓の一人が持っていたグラスを滑らせ、王太子妃にワインがかかりそうになったところを止めようとして、このような形となりました」
「そうだったのか、済まなかったな。せっかくの正装を台無しにさせてしまった」
「いえ、ちょうどお暇しようと思っていたところでしたので構いません」
「いや、そういう訳にはいかないだろう」
アクバール様がバレヌさんから視線を外されると、すぐにヒョコッとクレーブスさんが姿を現した。
「クレーブス、ブリュス殿の礼装を元に戻してくれ」
「畏まりました」
アクバール様の命令に、クレーブスさんは素直に従ってパチンと指を鳴らした。するとバレヌさんにかかったワインの染みが、みるみると薄くなって消えて行った。ほんの一瞬の出来事だ。
ワインの染みがあったなんて嘘のように綺麗サッパリにない。私とバレヌさんは二人でポカンとなっていたが、アクバール様とクレーブスさんは至って平静だった。……えっと、今の魔法よね?
初めて目にして驚いた。この世界には普通に魔法というものが存在しているけど、ずっと田舎に住んでいた私には縁のないものだった。森での生活も魔法なんてなくても、不自由なく過ごせていたし。
「王太子、有難うございます。ですが、魔法をお使いになって宜しかったのですか?」
――?
バレヌさんの問いに私は疑問を抱いた。魔法を使っては駄目だったのだろうか。
「あぁ、構わない。せっかくの祝いだ。純粋に会を楽しんでもらうサービスだと思ってくれ」
「そうですか。では素直にご厚意を受け取ります」
バレヌさんが厚意を受け取ると、場の雰囲気が和んだように見えた。
――ホッ。
良かった。ワインがかかったままバレヌさんに帰られてしまったら、私はずっと気にしていただろう。
「引き続き今宵は楽しんでくれ」
「はい」
アクバール様はバレヌさんに挨拶をされると、そっと私の手を取った。この場から去るのだと分かって、最後に私はバレヌさんに会釈して別れた。
「あれ? アクバール様、“クレーブス、よくやった。さすがオマエだ”のお言葉は?」
何処からかクレーブスさんの声が聞こえたような気がしたけど、アクバール様から話し掛けられ、私の意識は彼の方に向いた。
「一人にして悪かった。大丈夫か?」
「はい」
とは答えたものの、ワインの件や得体の知れない悪夢など、まだ現実と非現実の狭間にいるような感覚で、私は混乱していた。でもこの場で曇った顔を見せてはならない。私はアクバール様に悟られないよう無理に笑顔を作った。
「アクバール様の方こそ、陛下とのお話しは大丈夫でしたか?」
そうだ。アクバール様は陛下に呼ばれて、私から離れていたのだ。あの緊迫とした雰囲気から、話はかなり重かっただろう。
「あぁ、大事ない。叔父上も何も祝宴会の最中に無理強いをする必要もなかった。あの自分本位な考えは好かんな」
アクバール様の表情が一瞬だけ無機質に変わった。彼の言い分はご尤もだが、無理強いをなさった陛下はそれだけお怒りだったという事だろう。
――何はともあれアクバール様が無事に戻られて良かった。
心から安堵感を抱きたいのに、さっきのあの悪夢が頭から離れない。アクバール様に話をするべきだろうか。
――きっと私が疲れているからと言われて終わってしまいそうだ。
それに今、話をしたら退場せざるを得なくなるかもしれない。まだ挨拶だって残っているし、アクバール様には迷惑をかけたくない。だから私はざわついている心を悟られないよう、笑顔で誤魔化していた。しかし……。
「レネット、あまり体調が良くないのであれば、無理強いはしないぞ。早めに休んで構わない」
アクバール様にはお見通しのようだった。一瞬だけ甘えそうになったが、私はすぐに頭をフルフルと横に振った。
「いいえ、大丈夫です。今日は午前中にしっかりと休養を頂いたので、最後まで頑張れます」
「そうか。だが、本当に無理だと思う前に声を掛けるんだぞ」
「はい」
この後、アクバール様が隣にずっと居てくれたおかげで、事はスムーズに運び、問題なく祝宴会を終える事が出来た。レッスンを終えた後もどっと疲れが舞い込んできたが、それ以上に今は酷かった。
思っていた以上に気を張っていたのかもしれない。ほんの数時間の間にとんでもない出来事ばかり経験して……。陛下とアクバール様との事、貴婦人達とバレヌさんとの出来事、そしてあの悪夢だ。
弱音を吐きたくはないが、さすがに気が滅入りそうになっていた。やはり私はとんでもない所に嫁いでしまったのだと焦燥感もあった。この先、前向きにやって行けるのだろうか。今だけは弱気な心を赦して欲しい……。
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「レネット、疲れているところに悪いが少しだけいいか?」
「はい、なんでしょうか」
寝台に入った時だ。改まった様子のアクバール様から声を掛けられ、私は首を傾げた。昨夜のように褒美をやるぞとエッチしてくるのではないかと懸念していたが、そういった雰囲気ではなさそうだ。私がアクバール様の隣に並んで座ると、彼は早速話を始めた。
「昨夜、母上と何かあっただろう。それと今日の祝宴会だ。オレが離れている間に何があった? 赤ワインの件だが、ブリュス殿が言っていた事がすべてとは思えなかったぞ。オマエの様子が明らかにおかしかったからな」
「そ、それは……」
私はなんて答えたらいいのか分からず、視線を落とす。アクバール様は鋭いから、何処となく気付いているとは思ったけれど、無理に深入りしてこない人だと思っていた。
だからこうやってストレートに踏み込まれると、不意を突かれたようで対応が出来ない。だんまりなった私が答えるまで、アクバール様は何も言わず、待っている様子だ。その間の沈黙が実に重々しい。
「な、何もありません」
私はアクバール様と視線を合わせず、シーツを握った手に向かって答えた。
「レネット、オレに心配かけたくないという心遣いは嬉しいが、心配するような事でなければ、わざわざオレも話を聞こうとは思わないぞ」
アクバール様の口調は厳しかった。そこにきちんと私が話をするまで、身を引かない意志が感じ取れた。それでも私は話す気持ちにはなれない。
「本当にアクバール様が心配されるような事は何もありません。今日はお疲れでしょうから、ゆっくりとお休みになりましょう」
私は無理に誤魔化して掛けシーツの中に潜り込もうとした。残念ながらそれはアクバール様が許してくれなかった。彼に腕を掴まれ、躯を無理に向き合わせられる。私は視線を合わせられなくて顔を伏せた。
「レネット、言いたくない気持ちは分かるが、オレ達は夫婦 だ。何か困っている事があれば、助けてやるのが家族だろう」
「アク……バール……様?」
優しい言葉に私はツーと熱い涙を流していた。胸の内でずっと我慢していた思いが爆ぜてしまったようだ。瞼を閉じるとボタボタと雫が落ちる。それから私はポツリポツリと思いを口にしていった……。
