序 章

「闇の中に現れたサバイバー」




 私は躯が硬直し、その場から動けなくなった。
 目の前の「物」はドラム缶の上にあり、暗くてよく分からなかったが、目を凝らしてよく見ると……人の姿のように見えた。
 間違いない、人がうつ伏せになって倒れている?

 私は恐怖のあまり腰を抜かして、その場に座り込んでしまった。
 目の前の人が自殺なのか他殺なのか分からないけれど、ビルの上から落ちた事には変わりない。
 ドラマや映画で飛び降りは死体が綺麗なままで映るけれど、実際の肉体はバラバラになると聞いている。
 それを思い出し、私は嘔吐したい気分に駆られた。

 込み上げて来る気持ち悪い感覚に段々と息が乱れ、過呼吸のように苦しくなっていく。
 私は目を瞑り、首に手を当て必死に呼吸を整えようとするけれど、返って首が締め付けられるように苦しい。
 呼吸が乱れ、心臓の音も激しく速くなり、血が逆流していくような感覚に頭の中が渦を巻いたようにグラグラとする。
 目眩が襲ってくる。
 一層このまま気絶出来た方が楽だ。
 お願い、誰か助けて! 私は最後の力で叫んだ。

 一瞬のように思えて長く、長く思えて一瞬に過ぎたような気がした。
 何か頬に湿って擽る感覚に気付き、恐る恐る瞼を開けるてみると信じられない光景が映った。

 これは狼? 犬? ハイエナ? 半透明な色合いに鋭利で強大な光に包まれた獣が私の頬を舐めていた。
 鋭い瞳と牙に恐ろしさを感じつつも、何処か優しげな表情をした不思議な獣だ。
 相変わらず舌で舐めてくるのがくすぐったくてムズムズとする。

(なにこの動物は?)

 そういえば気持ち悪さが嘘のように消えている。
 あんなに死にそうなぐらい悶えていたのにこのワンちゃんが現れたから?
 私は恐る恐る目の前のワンちゃんの頭や顎下をナデナデと撫でた。
 くぅ~んと鳴く事はなかったけれど、気持ち良さそうに目を細めて舌を出している。

(本物の犬みたい)

 私は感動を覚えナデナデする。
 普通に考えればこの目の前の獣は有り得ない存在で、いわば架空の幻獣と言うのかな?
 世の中には化学では証明出来ない事が山ほどとある。
 現に私も……。
 そしてハッと気付づく。
 獣に目を奪われて気付かなかったけれど、ふと人の姿があった…。

 この暗い闇の空間と同化している「黒い人」が立っていた。
 獣がその人に気付くと、その人の許へと翻した。
 男性で背はとても高く身体つきも鍛え抜かれたと言わんばかりの引き締まったボディ。
 暗過ぎて黒にしか見えないけれど、髪と瞳の色は薄い気がした。
 顔立ちは彫が深く、すべてのパーツがくっきりとしていて容姿端麗。
 美しさあって精悍とした鋭い顔つきだった。

 なんといってもこの真夏に光沢のある黒い革のロングコート? を身に纏っていてコートの中も完全な黒一色のようで、この服装はまさに王道的なファンタジーのファインティングドレス?
 しかも物騒なのが硬質で強靭そうなロングショットガンを手にしている。
 一見コスプレイヤーさんかと思ってしまうのだが、幻獣の姿を目の前にして彼の服装がリアルな物だと悟った。
 まさにサバイバルゲームの世界の「サバイバー」という名に相応しい。
 そして威風堂々たる存在感に私は開いた口が塞がらなかった。

「まさか人が居たとは……ヤバイ所を見られた」

 声が聞こえてくるだけで耳が犯されているような気分になる超カッコいいバスヴォイスは全身が痺れような感覚となった。
 そんな彼はヤバイと言ったよね? なにがヤバイのだろう?
 そっか、空から降って来て平然として立ち上がって……そりゃおかしいや! わわっ私は急に恐怖に煽られ後ずさりをする。

 彼は少しずつ私へと近づいて来て、それに反するように私は後ろに下がる。
 さっき思いっきし腰を抜かしたから躯が思うように動かず、額からは汗が流れ、心臓がバクバクと高鳴り、頭はさっき気持ちが悪かった時のように再びグルグルと渦を巻き始めた。
 目の前の彼が危険、危険、危険だと躯全身がシグナルとして訴えていた。
 気が付くと私は背が壁に当たり、もう下がれる場所なんてなかった。

(ヤバイ……どうしよう)

 顔が恐怖に引きつり、全身から汗が滲み出るような感覚に震えが止まらない。
 心臓の音がさらに恐怖心を煽り、意識があるのが逆に不思議なくらいに私は正気を失いかけていた。
 ここから叫べば誰か気付いてくれるかもしれない。
 でもあまりの恐怖と嗚咽感に声を出したくても叶わずにいた。

 とうとう彼は私の目の前まで来た。
 狙った獲物を逃がさんと言わんばかりの凍りついた鋭い瞳と血が通っていないと思わせる程の無表情を浮かべ、私を見下ろしている。
 そして彼は私の左腕を乱暴に引っ張り上げると、後ろの壁に私の背を当て、さらに私の顎を上げ、深く口づけをしてきた。

(え?)

 私はこの瞬間の出来事が理解出来ず、頭の中も躯も硬直していた。
 彼の唇は私の唇を押し当てるように深く沈み込めると、さらに舌を侵入させてきた。
 私はどうしたらいいのか分からず、そのままでいると彼の舌は私の舌を求めるように這いずり回り絡めようとしてくるのが分かった。
 私はビクビクしながら無意識に舌を出すと、舌を吸われビクッとする。
 舌が重なると徐々に深く絡めてきた。

 ねっとりと執拗なぐらい絡めてくる舌に段々と息苦しくなり、酸素を求める私だったけれど、相手は容赦なく口内を侵食してくる。
 蹂躙をされるぐらい彼の舌は激しく暴れていた。
 再び深く舌が絡められた時、

(!?)

 私は喉の奥にドロっとした「液体」が流れてくるのを感じた。
 一瞬唾液かと思ったけど、変に甘美な香りのある「それ」は別の物だと認識した。
 そして私は不本意にもそれを呑み込むと一瞬にして躯の力が抜け、意識が遠のいて行くのが分かった。
 薄れていく中、最後に目にした光景は彼のこう呟いた姿だった。

「見られた以上、記憶を払拭させてもらう」

 それを聞いた私は深い闇の中へと眠りについたのだった……。





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