Truth5「奇跡が起こる瞬間」
ダーダネラ妃とマアラニが融合してから、二年程の歳月が過ぎた頃……。
『……マアラニ、私は其方を愛している』
地上にいるアトラクト陛下の声が海底にいる、ある魔女の耳にまで入って来た。彼女は胸に手を当て陛下の言葉を噛み締める。
―――時が来た、やっとやっと……。
しっかりと陛下の声を受け止めた彼女はようやく深い海という檻から解き放たれる時が来た。
「今、貴方の元へと参ります。アトラクト陛下」
…………………………。
…………………………。
…………………………。
「こうやって私は陛下の元へと参りました。これがすべての真相です」
「では……其方はダーダネラであり、マアラニだというのか?」
アトラクト陛下は唇を震わせながら問う。信じられないと訝しむよりも、喜びに打ち震えている様子であった。
「さようです。この姿は一体化した事によって新たな風貌へと生まれ変わりました」
彼女の答えに、陛下の胸の内に喜悦が広がっていく。それはこの二年間、陛下が抱いていた寂寞感すら溶かしていくような幸福感。陛下は彼女に言いたい事、伝えたい事が山ほどあるのだが、それを口にする事が叶わない。
「何故、其方は一度姿を現してくれた時、その事を伝えてくれなかったのだ?伝えてくれていれば、二年もの歳月離れている事はなかった」
「それは……もしあの時、打ち明けていたらです。陛下はきっとマアラニをダーダネラとして見て、愛されたのではありませんか?」
「!」
陛下は大きく息を呑んだ。彼女の言いたい事を汲み取ったからだ。
「陛下、私はマアラニとしてもう一度、貴方から愛されたかったのです。でなければ、600年もの歳月をかけて待ち続けたマアラニの心が報われないではありませんか」
―――あぁ、やはりそうだ。
ダーダネラ妃らしいと陛下は口元を破顔した。彼女はいつでも自分の意思をしっかりともち、最後まで貫き通す精神の強い女性だ。
「……其方は何という賭けをしたのだ?私が“愛している”と口にしなかった時はどうするつもりだった?」
「ふふっ、おっしゃる通りですね。……ですが、私は陛下であれば必ず愛して下さると、そう信じて待っておりましたから」
「其方は本当に感服させられる。姿が変わっても気質は変わらぬようだ」
「はい、そのようですね」
陛下と彼女は同じ喜びを笑みで共感し合っていた。開けていく輝く道はもう二人の目の前にまで来ていた。
「今の其方をなんと呼べば良いのだ?」
「陛下のお好きなようにお呼び下さいませ」
「そうだな。周囲の事を考えるのあれば、やはりダーダネラと呼ぶべきだろうか。だが、二人の時はマアラニと呼びたいものだ」
「ではそのようになさって下さいませ」
「あぁ、そうさせてもらおう。……ではマアラニ」
陛下は幸せを噛み締めるようにマアラニの名を呼び、そして彼女の片手を手に取る。それにマアラニも笑顔で応える。
「マアラニ。ようやく、ようやくだ。其方を迎える事が出来るのだな。600年という時を超えてようやく…」
「はい。陛下……陛下!」
マアラニは導かれるようにして陛下の腕の中へと飛び込んでいった。彼女の躯を包み込んでいた光は消え、陛下は彼女の躯を全身で受け止めた。残留死霊の姿であったマアラニだが、今はしっかりと人の温もりを感じる。
この二年間、悲しみに埋め尽くされていた陛下の心は暖かく息を吹き返し、胸の内いっぱいに見事な花々が咲き乱れた。その思いはマアラニも同じであった。二人は存在を確かめ合うように強く抱き合う。その時、マアラニは背中に違和感を覚えた。
「陛下、私の背中に何か硬い物を感じます」
明らかに陛下の腕とは異なるもの。
「あぁ、済まなかった」
陛下は手にしていたハードカバーを目の前に出した。
「陛下こちらは?」
「これは誰が執筆したものか分からぬが、600年前の私達の物語が綴られている」
陛下の答えにマアラニは目を丸くし、思わずハードカバーを手にした。そしてパラパラと目を通す。辺りは暗いが彼女には文字が読めているようだ。
「これは600年前の出来事だけではありません。ダーダネラと陛下の物語も、そしてダーダネラとマアラニが一体化し、そして陛下と結ばれる今日まで綴られています」
「なんだと?それは誰が書いたものだ?」
マアラニに問いたところでも、答えは分からぬと思っていたが、陛下は疑問を零さずにはいられなかった。
「陛下、これはサラテリ・アジュールが書いたものです」
「サラテリだと?彼は600年以上前の人物では?」
「さようです。彼は死後、死の世界で下界に残したいものがあると懇願したようです。それがこの本です」
「どういう事だ?」
「彼はアティレル陛下と私の恋を阻んでしまった事をずっと悔いておりました。その罪滅ぼしに、この本に彼の願いを綴ったようです。これは来世のアトラクト陛下と私に対する希望です」
「なんと?では彼の願い通りの物語を私達は歩んでいたのだな」
「はい。無事に私達は巡り合う事が出来ました。陛下…陛下……」
「マアラニ…」
互いの双眸が輝かしい光によって滲む。ようやく思いが報われる時が来た。口にしなくとも陛下もマアラニも互いが望んでいた未来に向かえると確信していた。悲しみを刻んだ分、この上ない至幸の未来への道が開けたのだ。
「陛下、もう二度と私は貴方から離れたりしません。私は心の底から陛下を愛しております。今までも、そしてこれから先もずっと」
「あぁ、私も其方を愛している。もう二度と其方を離したリはしない。今度こそ生涯何があろうとも共に生きていくと誓おう」
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「あ、虹が三つも出ています!凄いですね」
見上げると澄徹した青空に、大きく色鮮やかな虹が三つ並んでいた。
「こちらの世界にも虹があるんですね。三つも並んでいる虹なんて初めて見ましたよ」
沙都は感心した声を上げたが、隣に並ぶオールの様子が強張っていた。
「虹なんて初めて見たぞ」
「え?そ、そうなんですか?」
オールから零れた言葉を拾った沙都は目を丸くした。
「ここは滅多に雨が降らないからな。虹が現れる条件を満たさない」
「言われてみればそうですよね。では何故、あのような虹が現れたのでしょうか?」
「分からない」
オールは少々難しい顔をして答えた。
「不思議な事がありますね。あんなに綺麗な虹が三つも出るなんて幸せな気持ちになります」
沙都はほんわかした気持ちになっていた。二人が虹を魅入って眺めているところに、
「あっあっうぅ」
可愛らしい赤子の声が聞こえてきて、沙都はピンときた。
―――このお声は?
背後へ振り返ってみると、予想通りシャイン殿下の姿があった。殿下はよちよち歩きをしながら、満面の笑顔で沙都の方へと向かって来る。
―――あ~、今日も愛らしいシャイン様です!
沙都は殿下の姿を目にした途端に顔全体が緩んだ。今日の殿下も動物の形をしたフード付きポンチョを羽織って愛らしい。沙都は急いで殿下の元へと駆け寄る。
「シャイン様、おはようございます」
沙都は殿下を抱き上げて挨拶をすると、殿下は「きゃきゃっ」と、歓喜の声を上げた。そして殿下はオールにも挨拶をした。赤子でもそのきちんとした対応に、沙都は感心するばかりである。
「今日もシャイン様はとても可愛いですね」
沙都が殿下とじゃれ合っていると、前方から「おはようございます」の挨拶が重なる。殿下の世話係と護衛の者達だ。殿下は赤子とはいえ、次代の王となる。それなりの人数の護衛が付けられていた。
それにしても世話係の数が多い。これから殿下は中庭で遊戯されるのだろう。沙都達の方はオールが非番で、沙都は午前中のレッスンが休みとなった為、夫婦の時間を過ごしていた。
「オールッ」
突然、切迫感が含まれた声にオールが呼ばれた。沙都とオールが振り返ると、
「エヴリィさん?」
彼の様子に違和感を覚えた。
「どうした?」
いつもと様子が異なるエヴリィに、オールも気付いたようで声をかけた。
「今朝から宮廷に異質を感じるが、オマエは何も感じていないのか?」
オールの金色の双眸が大きく揺れる。その驚き方で彼が何も知らないという事をエヴリィは感じ取った。
「もしかして、あのトリプルレインボーか?」
「!……トリプルレインボー?」
エヴリィが空を見上げて瞠目する。どうやら彼は今トリプルレインボーの存在に気付いたようだった。
「あ、そうなんですよね。私達も驚きました」
「トリプルレインボーは“奇跡が起こる瞬間”と呼ばれています」
「え?」
―――奇跡が起こる瞬間……ですか?
沙都の心に何かが波立つ。それと同時に、
「あっあっうぅ」
殿下が喜々満面の笑顔で誰かに声を掛け始めた。
「え?」
その場にいた誰もがこちらに向かって来る人物達に息を呑んだ。アトラクト陛下に手を添えられて歩くプラチナ色の髪をもつ美しい女性、婉然たる笑みで陛下の隣に並ぶその姿はまるで夫婦のように自然に映った。
沙都もオールもエヴリィの三人は初めて目にする女性であるのに、そうは感じられなかった。その理由は彼女こそがあのハードカバーの物語に登場する人物だと気付いたからだ。陛下の隣に認められる女性はあの女性しか考えられない。
―――あの女性が何故、陛下と一緒におられるのでしょうか?
沙都の胸の内がドクンドクンドクンと騒ぎ出す。とてつもない期待を抱いて。
―――陛下は物語を読まれて行動を起こされたのでしょうか?
陛下の女性に手を添えていないもう一方の手には例のハードカバーが握られていた。それにエヴリィも気付き、陛下達の前に出た。
「陛下、そちらの本をお読み下さったのですね?」
「あぁ。すべて読み終えている。これは私とダーダネラもといマアラニとの愛の物語であった」
エヴリィの問いに陛下は深みのある笑みで答えた。
「さようです。ではそちらの方はダーダネラ様……と、お呼びして宜しいのでしょうか?」
「やはり其方はこの本で気付いていたのだな。ダーダネラがマアラニと同一である事に」
「はい。それと著者がサラテリ殿である事、それのみを存じておりました。何故、過去の彼が現在の陛下達の出来事まで綴る事が出来たのか、それは分かり兼ねる事ですが」
エヴリィは明確に伝えられない事を具合が悪いと感じているようで苦い顔を見せていた。
「この本はサラテリが死後の世界で、自分の願いを書き綴ったようだ」
「何故、陛下がそのような事をご存じで?」
「すべてダーダネラから聞いた」
「ダーダネラ様が?」
エヴリィは瞠目してダーダネラ妃を見つめる。すると彼女は綺麗な笑みを広げて口を開く。
「死後の世界でそう聞いたわ。……久しぶりね、エヴリィ。またこういう形で貴方に会える日が来るなんてね」
「おっしゃる通りです。ダーダネラ様、貴女が陛下の元へいらっしゃったのですか?」
「えぇ、そうよ」
「本を陛下に渡しただけでは魔女の世界まで行けるとは思っておりませんでした。貴女の行動には本当に驚かされましたよ」
「ふふふっ、陛下からも似たような言葉をもらったわ」
―――この感覚、やはりダーダネラ様だ。
姿形が変わっても、ダーダネラ妃の要素が残っている事にエヴリィは安心した。
「はっ、うっ、え、はっ、うっ、え」
「シャイン様?」
突然、殿下から聞いた事のない言葉が出される。それが沙都には「母上」と言っているように聞こえた。
「シャイン様が母上と呼んでおられます」
殿下は明らかにダーダネラ妃を指して、何度も母上と言っている。
「シャイン、もしやオマエはダーダネラを母だと分かっておるのか?」
陛下の問いに殿下は「きゃきゃ」と返事を返した。それにグッと陛下の胸の内が熱くなり、沙都から殿下を抱き上げ、ダーダネラ妃へと預ける。
「陛下?」
「ダーダネラ、シャインだ。私達の子だ」
ダーダネラ妃は少し躊躇う様子を見せたが、殿下を抱き寄せる。殿下の重さも温もりもすべてが新鮮であった。それにペールブロンドの髪とピンク色の双眸、元の自分の姿にあった一部を殿下は見事に受け継いでいる。
「シャイン…」
ダーダネラ妃が殿下の名を呼ぶと、殿下はこれまた全身で喜びを表していた。ダーダネラ妃の目頭が熱く滲んでいく。決して叶わぬと思っていた我が子を抱くこの感触。それが今現実になって自分の手の中にいる。
ダーダネラ妃の胸の内に今まで感じた事のない温かな感情が芽生えた。これは母親でなければ感じる事のない温かさ。その熱い思いは涙となって頬を伝う。その姿を見た沙都がダーダネラ妃に優しく伝える。
「王妃様、シャイン様の初めてのお言葉は“母上”ですよ。本当のお母様に会えて、とても喜んでおられます」
「沙都、母親は私だけではないわ。貴女もシャインの母親よ。そうでしょ?」
「は、はい、おっしゃる通りです」
沙都はとても歯痒い気持ちで答えた。
―――そうですね。シャイン様を生んだのは私ですからね。
次代の王となる殿下を生んだ事を沙都は改めて誇りに思った。
「オールと夫婦になったのね。貴方達ならそうなると思っていたわ」
「有難うございます」
沙都が礼を伝えると、ダーダネラ妃はオールに目を移した。
「オール、私があの時、残した言葉が現実となって良かったわ。今更ではあるけれど、沙都と夫婦となっておめでとう」
「有難うございます」
オールは恭しく頭を下げた。そして思い出す。天に召される前にダーダネラ妃が残したあの時の言葉を。
―――オール、どうか幸せになって。貴方の幸せは近くまで来ています。
「ダーダネラ妃、オレと沙都が誓いを立てたあの時、貴女から頂いた祝福の高級花を目にして気付きました。貴女がまだこの世界の何処かにいらっしゃるのではないかと」
オールはあの時、違和感を覚えていた。天に召された筈のダーダネラ妃からの祝いの花吹雪。天から見守ってくれていたのかと思えば、とてもロマンチックな話ではあるが、現実的にそれは有り得なかった。
人の魂は新たな生を受ける為に浄化される。ダーダネラ妃が天に召されたあの日から、オールと沙都が誓いを立てる日までは月日が経っていた。オールはまだダーダネラ妃がこの世に残っているのではないかと考えていた。それはあくまでも彼の憶測に過ぎなかったが。
「さすがに貴方は思慮深いわね」
「とはいえ、自分に何か出来る訳でもありませんでしたが」
「それはそうよ。死人をどうこう出来るものではないもの」
今となってはこういった形で収まる事が出来たのだ。誰もオールを咎める者はいない。
「きゃっきゃっ」
空気を和ませるのはやはりシャイン殿下。彼はこの大国の未来を担う大事な存在。殿下を見ているだけで、生命力の大きさを感じられる。
「シャイン、“幸をもたらせる”我が国の希望の光り」
ダーダネラ妃はシャイン殿下の名の意味を口にした。
「ダーダネラ、それは其方も同じだ。皆にとって其方は希望だ。空に流れるあのレインボーのように。シャインと共に新たな未来を刻んで参ろう」
「はい、陛下…」
◆+。・゜*:。+◆+。・゜*:。+◆
魔女マアラニと一体となったダーダネラ妃の存在をどう周知に知らせるか、そもそもダーダネラ妃とマアラニの出来事を民衆が従順に受け入れるのか、その問題はかなり重要視されていた。
民衆から陛下が魔女を迎い入れたいが為に、魔女がダーダネラ妃と偽っている可能性があると疑われていた。だが、それでも陛下は全く迷いがなかった。例え何年何十年とかかろうとも、問題を解決させる覚悟があったのだ。
―――これもすべてマアラニとの約束を果たす為。
今度こそ約束を違えないよう、もう二度と彼女を悲しませないようにと、頑なな思いを抱いて。そうして時が経つにつれ、陛下の想いは民衆の心へと浸透していく。実際、ダーダネラ妃は姿が変わっても皆が知るダーダネラ妃であった。
彼女は以前の記憶もすべて覚えていて違和感もなく、魔女としての恐ろしさを微塵も感じさせなかった。何よりシャイン殿下がダーダネラ妃をとても慕っており、陛下と合わせて三人一緒にいる姿は誰もが羨む家族の光景であった。
ダーダネタ妃の人柄のおかげもあり、予想よりも遥かに早い段階で人々は彼女を受け入れ始めていった。そして民衆の不満の声が鎮まった頃、陛下はシュヴァインフルト国の新制度を取り入れる決定を下した。
ダーダネラ妃が魔女である以上、あの制度は不可欠なもの。オーベルジーヌ国が取り入れた事によってシュヴァインフルト国との結び付きがより強固となり、そして他国も積極的に制度を取り入れるようになった。
元は魔女も魔法使いも地上に出ていた生き物だが、魔物の増加によって居場所が狭められ、それをシュヴァインフルト国筆頭に元の環境へと戻そうと努力している。今後、魔物に対する対策と魔女達との交流が大きな課題となった……。