Truth2「愛を吹き返す物語」
「エヴリィ、これからどうするんだ?」
シュヴァインフルト国から移動中は誰一人と口を開く事がなかったが、オーベルジーヌ国へ帰国した時、オールが沈黙を破った。問われたエヴリィは思案を巡らせているのか無言でいる。
結局、アクバール陛下は最後までエヴリィ達の申し出を聞き入れる事はなかった。彼に聞き入れて貰うにはアトラクト陛下の許可が大前提だ。だが、それが出来るのであれば、エヴリィ達も初めからやっている。
―――アトラクト殿と向き合った時、思いも寄らぬ出来事が待っているかもしれぬぞ。
アクバール陛下はあのように告げてきたが、エヴリィには前向きな意味で捉える事が出来なかった。ストレートにアトラクト陛下に伝えたところでも、許可を得られるとは思えない。
―――きっと陛下は許可を下ろさないだろう。
エヴリィはそう確信していた。陛下はいくら自分の為とはいえ……いや自分の為であるならば、尚のこと魔女との接触を許可しないだろう。あの主は決して私欲の為に、民の不安を煽るような真似はしない。
それだけではない。今、沙都が手に握っているレネット王妃から借りたハードカバーも謎に包まれ過ぎている。この本の正体をきちんと調べるまでは勝手に魔女の元へ行く事を許さないであろう。
しかし、この本についてはどんな魔導師だろうが、きっと神官ですら謎を解く事は不可能だ。これは人の想いで作られた奇跡の本なのだから。であれば、いつになっても魔女の所には行く事が出来ない。
「完全にお手上げだよ。何も手立てがない」
いつも自信に溢れているエヴリィの口から、まさかの弱音を吐かれるとは沙都もオールも驚くと同時に、心に絶望が広がっていく。
…………………………。
再び三人の間に沈黙が降りようとした時…。
「アトラクト陛下?」
沙都とオールの前を歩くエヴリィが驚愕の声を上げた。彼の声に沙都とオールも前方の奥へと視線を移す。広がる墓地の奥には祈りを捧げる陛下の姿があった。
「沙都様、私にそちらの本を渡して下さいませ」
「え?」
エヴリィは振り返って手を差し出す。沙都は目を丸くしていたが、すぐにハードカバーを渡した。
「エヴリィさん、そちらをどうされるのですか?」
「陛下にお読み下さるよう伝えます」
「え?ですが、ストレートにお伝えしたところでも陛下は…」
「えぇ、分かっています。それでも陛下に委ねようと思います」
エヴリィの答えに、沙都もオールも異を唱えなかった。エヴリィが少しでも憶測から外れる事を賭けているように見えたからだ。沙都もオールも同じ気持ちでいる。
沙都達が近づいて来る気配を感じたのか、陛下は顔を上げて振り返る。彼の目の前には美しい花々が添えられた亡きダーダネラ妃のプレートが立っていた。エヴリィ達もダーダネラ妃の墓参りへと来たのだが、先に陛下がいたのだ。
「陛下、いらしてたのですね。ダーダネラ様にお祈りでしょうか」
「あぁ、エヴリィ達もか」
「さようです」
「そうか。わざわざ足を運んでくれ、さぞダーダネラも喜ぶであろう」
花が咲き誇るような美しい笑みを広げる陛下を前に、エヴリィ達は少しばかり緊張の面持ちを見せていた。その微妙な空気に陛下は気付く。
「どうした?遠慮せずにこちらへ参れ。私なら退くぞ」
「陛下」
「どうした?酷く真剣な顔をして?」
エヴリィは陛下の前に立ち、手にしていたハードカバーを差し出した。
「陛下、恐れ入りますが、こちらの本をお読み頂きたいのですが」
「急にどうした?それは何の本だ?」
陛下は訳が分からないといった様子で、ハードカバーへ目を落とす。
「内容は直接ご覧になって下さいませ」
エヴリィは詳細を伝えず、本を陛下に手渡した。半ば強引に見える行動だが、酷く真面目な様子のエヴリィに陛下は何も叱責をしなかった。
「分かった。それだけ大事な本なのだな。だが、ここ最近は忙しなくてな。すぐには読めぬかもしれないが良いか?」
「構いません。そちらをお読み頂いた後、陛下に折り入ってお願いがございます」
「なんだそれは?今、申す事は出来ぬのか?」
「はい、申し訳ございませんが」
「そうか。では読み終えたら其方へ伝える」
「お手を煩わせます」
「いや、では私はこれで失礼しよう」
陛下は本についても、エヴリィの願いも深入りせずにこの場から去って行った。そしてエヴリィ達は陛下の背中が見えなくなるまで見送った……。
「あの本を読んで陛下はどう思われるでしょうか」
陛下の背中が見えなくなった頃、沙都が言葉を零した。
「陛下のお心を揺るがす事は確かだろうな」
「陛下の偽りないお気持ちに応えたいですね」
三人の想いは一緒であった。あの本が行動を起こすきっかけになれば良いと、そう願わずにはいられなかった…。
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―――大国オーベルジーヌ。
躍動感に溢れていた街が消灯し、すっかりと寝静まり返った頃、ある人物は塔の最上階で海を眺めていた。だが海は常闇に紛れ、塔の仄暗い灯りのみでは姿を目にする事が出来ない。
―――ザァ―――。
微かに聞こえる水音だけが起きているようだ。あたかも海の水だけが生きている、そう思えてしまう程、辺りは静寂としていた。ある意味、妖しの空間に佇んでいる人物はこのオーベルジーヌ国主のアトラクト・ノティス陛下である。
彼はここ連日このような時間に海を眺めている。時折、海を眺めに来る事はあったが、ここ連日は今までとは事情が異なっていた。特に今日は。陛下は手に持っている赤ワイン色のハードカバーに視線を落とす。
エヴリィから渡された本を陛下は早い段階で目を通していた。数ページ読んだだけで、この本の異質を感じ取っていた。何故この本をエヴリィが?この本は誰が書いたものか?次々に湧き起こる疑問を持ったまま陛下は読み進めた。
しかし途中で胸が締め付けられ、読むのを中断してしまっていた。アティレル陛下とマアラニの悲恋話を読んでいくのは非常に堪え難かった。そして気が付けば、またこのテラスへと足を運んでいたのだった。
そもそも陛下が何故、このような時間に海を眺めるようになったのか。そのきっかけはオーベルジーヌ国と最も確執の強い西の大陸シュヴァインフルト国のある出来事から始める。
あの大国が今後、魔女や魔法使いと共有する世界を創ると宣言してから、アトラクト陛下の心が揺らぐようになった。これまで魔女や魔法使いは人間の世界から身を隠し、海の奥深くにひっそりと暮らしていた。
そこにシュヴァインフルト国陛下の働きによって人間の世界に、魔女と魔法使いを受け入れる傾向が生み出されたのだが、実際のところアトラクト陛下の国も含め、他国では受け入れ難い内容であった。
魔女達の魔力は人間の魔導師や退魔師が持つ魔力よりも遥かに凌駕する為、垣根を無くしてしまえば、いずれ魔女達に人間の世界を支配されてしまうのではないかという危惧が大きかったのだ。
しかし、個人的な意見であれば、アトラクト陛下もシュヴァインフルト国側と同じ体制を取りたいと思っているが、それは自国の思いとは反する事になる。オーベルジーヌ国の人間は決して魔女を快く思っていない。
今から二年以上前の事、元オーベルジーヌ国の王妃ダーダネラ・ノティスが魔女マアラニの呪いによって死に至った。呪いの原因は現国王アトラクト陛下の前世、アティレル陛下との恋を引き裂かれた事による。
現オーベルジーヌ国の人間からしてみれば、なんとも胸が塞がれる思いであった。どんな理由があれども、マアラニの行いに斟酌の余地が与えられる筈はなかったのだが、残留死霊となったダーダネラ妃の働きによって、マアラニとは和解という形で収まった。
以後、マアラニの姿を見た者はいない。これですべてが終わった筈だったのだが、アトラクト陛下の心には亡きダーダネ妃と共にマアラニも生きていた。何故なら陛下にはアティレル陛下の記憶が蘇っており、マアラニを愛していた頃の感情が息を吹き返していたからだ。
アティレル陛下はマアラニと引き裂かれた後、来世こそは彼女と共に生涯を迎えると誓って息を引き取った。だが運命の悪戯なのか、輪廻転生したアトラクト陛下にはアティレル陛下の記憶は残っておらず、さらに陛下はダーダネラ妃と生涯を歩んだのだ。
事情があるにしろ、来世でも結ばれる事のなかったアトラクト陛下とマアラニだが、600年もの月日をずっと待ち望んでいたマアラニの気持ちを考えれば、陛下が気に掛けるのも仕方がない事であった……。
―――ザァ―――。
姿こそ見えぬが緩やかな波の音が奏でる。その音を研ぎ澄ますようにして、アトラクト陛下はずっと聞いていた。ここで思う事はやはり魔女マアラニの事。姿も見えぬ海を見つめる陛下をマアラニは気付いて地上を見上げているのだろうか。
「マアラニ……」
気が付けば、陛下は彼女の名を零していた。
「其方と生きる道を決断出来ぬ私を其方は憎んでいるのだろうか。一度ならず二度も其方を待たせておる。今手を伸ばせば、其方を迎えに行けるというのに」
シュヴァインフルト国のように魔女を受け入れる体制に変えてしまえば、マアラニを迎えに行く事は出来るであろう。しかし、それを為せば陛下は自国を捨てざるを得なくなる。
マアラニと生きる道を選ぶという事は今一番愛しいシャイン殿下と離れ離れになる。陛下にとって非常に堪え難い事である。シャイン殿下は亡きダーダネラ妃との間に生まれた陛下にとって至宝そのもの。どんなに愛情を注いでも尽きる事のない絶対的な存在。
―――今、私にはシャインと別れる覚悟がない。
それが陛下の正直な気持ちであった。
―――何かと理由をつけてマアラニの元へは行けぬ。結局、私は国も民もシャインも捨てる事が出来ないという事か。
そう認めてしまえば、胸が打ちひしがれる思いであった。
―――最後にダーダネラが残してくれた希望の言葉。
陛下はダーダネラ妃のあの言葉を思い出し、噛み締めていた。
『この先、陛下がどのような道をお選びなさっても、真に幸せでいらっしゃるのであれば、それは私の願う幸せでもあります』
このダーダネラ妃が陛下に残した言葉の意味は……。
―――私はこれで終わりにはせぬ。マアラニ……私を待っていてくれるだろうか。時がくれば、私は其方を迎えに行きたいと思っている。
「今の私の気持ちは其方と共に生涯を歩みたいと思っている。……マアラニ、私は其方を愛している。今、私が手を伸ばせば其方は私を迎えに来てくれるのだろうか」
陛下は想いを吐露した後、静かに瞼を閉じた。
―――…………?
すぐの事だった。陛下は何かを感取し、ハッと目が醒めたようにして瞼を開く。
―――海か…?
底なしの常闇色にしか見えぬ海から何かを感じる。陛下は海を刮目し、何かを突き止めようとしていた。
―――光り…?
闇に浮遊する純白色の光りが現れ、陛下は息を呑む。只ならぬ事であると剣呑に身を強張らせるところだが、陛下には不思議と危険に思えなかった。寧ろ、懐かしいような温かな感情に気持ちが高揚していた。
―――あの光りは一体?
やがて光りは陛下に吸い寄せられるように肥大していき、その光りから陛下は目が離せなくなっていた。そして光りは瞬く間に目の前にまでやってきた。陛下は言葉を失い、魂を吸い寄せられたかのようにして光を魅入る。
「…………………………」
光りが見えてから、ここまでほんの数秒の出来事であった。光りは生き物のように揺らいでおり、陛下には自分を見つめているように見えていた。やがて光りは大きく揺れ動き、みるみると形づいていく。
「!」
驚くのも束の間、光りは見事な形を遂げ、陛下は息を切った。光りは人型の、それも呼吸をする事すら忘れる程の美しい女性の姿を作り出した。彼女は陛下を目の前にして浮遊している。
彼女を例えるなら、皆(みな)から長く愛し親しまれている極上の高級花を具現化したような麗しい風貌、さらに凛とした佇まいが王族の女性のように優美でもある。
腰まで滑らかに流れるストレートの長い髪は絹糸のように繊細で、触れる事すら躊躇わせるほど美しい。そんな彼女は艶麗とした微笑を浮かべ、真っ直ぐに陛下を見下ろしていた。
陛下には女性が誰であるか分からなかった。しかし何処か懐かしく、そしてとても愛おしい気持ちが湧いている。何故、そのような気持ちが芽生えてたのかは分からないのだが……。
「其方は……何処かで会った事があったか?」
無意識の内に陛下は光りに包まれる女性に声を掛けていた。問いかけられた女性は笑みを深め、こう口を開く。
「陛下……陛下、私です」
女性の応えに陛下は瞠目する。「私」と言われ、混乱が生じていた。女性の外見だけではなく、声を耳にするのも初めての筈。陛下は女性の方へと歩み寄り、彼女の顔を間近で目にする。
…………………………。
ややあって陛下の瞳が大きく揺れ動いた。
―――似ている…。
一瞬だけ陛下の脳裏にある人物が浮かび上がる。だが、そのような事はないと即否定した。何故ならば、もう彼女がこの世に存在していないからだ。
「陛下、私はずっと待っておりまりました。陛下からまた愛の言葉を頂ける日を」
「?」
さらに彼女が紡いだ言葉に、陛下の混乱が深まる。
―――ずっと待っていた?愛の言葉を頂ける日を。
彼女の言葉を反芻した時、先程脳裏に浮かんだ女性とは違う姿の人物に映る。
―――いやそれも有り得ない。……もしや彼女なのか?
陛下は否定しつつも、浮遊する不思議な女性が只の人間である筈がない。人間ではないという事は……。
「……其方、もしやマアラニか?」
「さようでございます、アトラクト陛下」
ドクンッと陛下の胸が強く高鳴った。ジワジワと波紋のように広がる喜悦と同時に、訝し気な気持ちが湧いている。
「本当にマアラニなのか?姿が違っておる」
陛下の記憶の中では彼女は漆黒の髪と深紅の瞳をもつ怜悧な面持ちをした美女であった。今は柔和で楚々たる美女の姿をしている。この容色はどちらかといえば……。
「今の其方の姿が何故か私にはダーラネラにも見える。其方はダーダネラではないのか?」
「それは……今からすべてをお話し致しましょう。ダーダネラとマアラニとの関係を」