Birth74「沙都の想い」
王妃様と今生の別れをした後、残された私達は夢心地から醒めたように現実へと引き戻されました。まずは魔女マアラニの事です。あの場でアトラクト陛下は彼女と何かを話していらっしゃいました。
内容は分かりません。ただお二人の真剣な面持ちからして、今後どうするべきか、陛下から告げられていたのではないでしょうか。さほど時間を取られずにお話が終わりますと、それからゼニス神官様とエヴリィさんが入られました。
その後、私達は地上へと戻って来たのです。マアラニを残して…。まさかあの場でマアラニに見届けられて別れるなど、あまりの予想外でした。処刑の有無に関わらず、マアラニの身は確保するものばかりだと思っておりましたから。
宮殿へと戻ってから数日が経っても、マアラニの件がどのようになったのか、知る事はありませんでした。それはオールさんも一緒でした。ご存じなのは陛下と神官様とエヴリィさんのみだったと思います。
それから間もなくして、思わぬ出来事を聞かされます。それは陛下が事件の終結を民衆の前で公表なさると言うのです。内容は王妃様を襲った魔女と闘いの末、討伐し事なきを得たと。
勿論、それは事実ではありません。王妃様の最期の願いに、マアラニは処刑から免れていました。そのような事実を民衆の前で晒す訳には参りません。民衆から怒りを買う事は分かっていたからです。
すべてはマアラニの罪を、いえ愛を守る為でしょうか。真実を隠蔽にして公表なさる事にしたのです。公表の場で城外へと集結する民衆を前にし、陛下は王宮の謁見台へと立たれました。
民衆の嘆ずる反応からして、威容を誇る陛下のお姿が如何に儼乎であるかを表しているように見えました。私も含め、民衆から固唾を呑んで見守られる中、陛下のお言葉が綴られていきます。
そこで思いも寄らぬ出来事が起こりました。陛下はマアラニの生存を明かし、すべて真実を述べようとなさったのです。マアラニの生存を明かす事は彼女の咎めるべき罪を許す事になります。
これほど具合の悪い事はありません。彼女を守るどころか逆に追い詰めてしまいます。私はそれがマアラニに対する制裁であるのかと懐疑しておりました。ところが、実際はそれとは全く逆の思いだったのです。
アトラクト陛下はアティレル陛下の頃からの話をなさいました。マアラニと愛し合っていた事、彼女との恋を阻まれた事、そして一生涯逢うことなく別れて亡くなっていた事。それから時を経て、忘我となったマアラニがダーダネラ王妃様を襲い、呪いをかけた事すべてです。
何一つ隠さず、全貌を明らかになさいました。民衆からしてみれば、600年もの月日の流れや陛下の輪廻転生の事など、半信半疑な部分も多かったかと思います。強い懸念を抱かざるを得ない状況の中で、これもまた私の予想を遥かに超える出来事が起こりました。
民衆の誰からも顰蹙の声は上がらず、綴られる陛下のお言葉に耳を傾けていたのです。深く愛したマアラニの存在をなかった事にされたくない、彼女の600年と待ち続けてくれた気の遠くなるような月日を無駄にはしたくないという、陛下から滲み出る哀願が民衆の胸の奥へと伝わっていたのです。
真摯な眼差しを向けて陛下の声を聞く者、心を打たれて悲涙する者、それぞれがやるせない情感の中で、陛下のお言葉を受け入れようとしているのが分かりました。皆が陛下の想いに共感していたのです。
本来であれば、慨嘆されるべき行為であるにも関わらず、民衆が受け入れる心となったのは心から陛下を尊崇されているからだと言えます。それ程、アトラクト陛下という人物は偉大な方なのだと、ゼニス神官様とはまた別の意味で神の領域をいく方なのだと、思い知らされました。
そしてこの公表の場は私の懸念が覆される事なく、無事に終える事が出来ました。これでマアラニの命は救われた、そう願っています。そして私の勝手な思い込みでしょうが、今回の事は王妃様の思いが陛下を通して、民衆の心へと伝わったのではないのでしょうか…。
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人気のない書庫で、私はエヴリィさんと一緒におりました。アトラクト陛下からマアラニの件が公表された後の宮殿は忙しい日々が続いていました。民衆が陛下のお気持ちを察して事なきを得たというのは、あくまでも暴動などといった大きな事件が起こらなかったという表面上だけの事であり、実際の宮殿内部では大事になりました。
なんと言いましても、歴史や異種族に関わる問題ですので、宮殿の各省は目まぐるしい処理に追われています。そしてやはり、マアラニの罪に対する処罰には賛否がありました。ですが、それについては陛下のご意思が左右される事はありませんでした。
陛下は頑なに王妃様とのお約束を守ろうとなさっています。そこにはマアラニの命も懸かっています。ここ数日間は陛下と共に夜を過ごしてはおりません。陛下が寝る間も惜しんで事件の処理を行っていらっしゃるからです。
「陛下は大丈夫なのでしょうか」
私は一人呟くように気持ちを吐露しました。すると、書物の整理をされていたエヴリィさんの手がふと止まり、チラリと私へと視線が向けられました。その後、真剣な面差しでこちらへと来られます。
「そうですね。お疲れのご様子をお顔には出されていませんが、実際はかなりのお疲れだと思いますよ」
「まともに睡眠もお取りになっていませんものね」
「気掛かりでいらっしゃるのだと思います。早く事をお済ませになりたいのでしょう。それは魔女に危険が及ばないように…という事でしょうが」
何処か腑に落ちないエヴリィさんのご様子に、私は居た堪れない気持ちが湧きました。まだ彼の中ではマアラニに対する憎しみが払拭出来ていないのでしょう。それでもマアラニを討伐するという気持ちが彼の中で消えただけでも、前向きになったと言えるのでしょうが。
「あの…」
「なんでしょう?」
何処となく口籠るような声音で、私は別の件を口にしようとしました。とても気に掛けていた事です。
「陛下はマアラニとは会って…「いらっしゃらないと思いますよ」」
すぐに言葉を重ねられ、エヴリィさんの察しの良さに驚かされます。私が目を丸くしておりますと、彼は悟るように言葉を紡ぎます。
「今回の件ですが、そもそも陛下の転生をなさった時代が宜しくなかったと思いますよ。現世、人間と魔女が住む世界の間に隔たりがありますからね。もしその隔たりがなければ、魔女は陛下に会う事が叶い、今回のような参事は起きなかったのでしょうね。まぁ、陛下と魔女が結ばれていたかどうかは別ですが」
「そうですね」
私は思います。陛下の記憶が消失していたとしても、真っ直ぐにマアラニと出逢う事が出来ていれば、きっと記憶を甦らせる事が出来たのではないかと。アティレル陛下とマアラニの愛の絆はとても深かったのですから。
ただそうであれば、アトラクト陛下とダーダネラ王妃様の愛が結ばれる事もなく、そして今、私のお腹におられる御子の生命も授かる事もありませんでした。それはそれでとても複雑な思いに駆られます。
「このままもうお二人は会えないものなのでしょうか」
「現世の状態ではなんとも言えませんね。ただ陛下は時折、テラスへと行かれて海を眺めるようになりましたね。それが魔女を想っていらっしゃるのかどうかは分かり兼ねますが」
「そうですか」
それはマアラニの事が気掛かりである事には間違いありません。あのような形でお別れし、ご納得なさっているとは思えませんもの。とはいえ、現実が厳酷であるのも確かです。容易にマアラニには会えないのですから。
「皮肉ですよね。陛下は魔女に対し、ダーダネラ様の命を奪った憎しみをもち、逆に魔女を深く愛していた記憶が蘇ってしまっている。その二つの想いの間で陛下はこの先も葛藤し続けていくのでしょうから。一層、記憶がお戻りにならない方が良かったのではないでしょうか」
「…………………………」
私はなんと言葉を返したら良いのか、言葉が喉に閊えます。陛下にとってマアラニとの記憶は思い出されない方が良かったのでしょうか。確かにその方が陛下のお心の悲しみは今よりも少なかったかもしれません。
ですが、それが本当の意味で望まれる事ではないかと思います。陛下がマアラニを思い出された事によって、彼女の心は幾分か救われたのですから。でなければ、彼女はずっと陛下を憎んでいたかもしれません。
「私はそうは思いません。マアラニの事は陛下にとって忘れてはならない存在です。例え葛藤に例え葛藤にお苦しみになっても、思い出さなければ良かったなどとはお思いにはならないでしょう。私が陛下ならそう思います」
私も陛下を愛した事を後悔しておりません。結果、彼の心は別の女性にあって苦しい思いもしましたが、なかった事にはしたくありませんもの。
「そうですか…さようですね」
私の言葉にエヴリィさんは感慨深い表情をされて応えました。彼は私の言葉の意味を理解されたのでしょう。彼もまた愛した女性の事を想えば、おのずと気持ちがお分かりになったのではないでしょうか。まだ彼の心の中では生きている女性(かた)でしょうから。そして…。
「これからの先は分かりません」
「え?」
「陛下が退位をなさったら王政から離れます。王政に囚われなくなった時、陛下はまた新たな人生を歩まれるかもしれませんね」
それはもしかしたら…。期待を抱いても良いのでしょうか。そう願わざるを得ません。
「今の発言は配慮が足りませんでしたね。沙都様には随分とお辛い想いをさせてしまいました。私は貴女のお気持ちを察していて、何もお伝えする事が出来ませんでしたから」
思いがけないエヴリィさんからのお詫びの言葉に、私は瞠目とします。今のタイミングでその言葉は私の陛下に対する想いを差しているのでしょう。
「いいえ、私は後悔をしておりません」
その答えに偽りはありませんでした。
「そのようなお言葉を下さり、恐縮です。さすがと言いましょうか。私は沙都様に謝り切れませんね」
「それはどういう?」
苦々しい笑みを浮かべるエヴリィさんを目の前に、私は首を傾げます。彼の苦笑がとても意味深に見えました。
「私は最初からほぼ確信がございました。沙都様はきっと陛下を拒まれないと」
「え?」
それは私が陛下に抱かれる事を拒まないという意味に受け取れました。
「沙都様がこちらの世界にいらっしゃった時、こちらの言葉が認識出来るのは貴女がダーダネラ様の能力を引き継いでいると申しました。多少なりにダーダネラ様の感情を引き継がれているという意味にもなります」
「え、それは…」
―――まさか…?
ドクドクと動悸が耳の奥へ直に打ちます。陛下に抱かれる度に愛おしい、懐かしいと抱いていたあの感情は王妃様からの感情であったというのですか。まさかそのような事が…。私は放心となります。
―――あの感情は私の想いではなかったと…?
陛下を心の底から愛した事、それに今ほのかに抱いているこの感情もすべて王妃様の…?
…………………………。
―――いいえ。そうではありませんね。
私はすぐに首を横に振ります。
「すべて私の想いそのものでした。心で感じた想いに偽りはありません」