Birth57「導かれた世界」




―――さ…と……。

 誰かが私を呼んでいます…。そう気付いたにも関わらず、私は意識の狭間に揺れ、目覚めたくない気持ちが強く、眠りについたままでした。まるで天国にいるような陶酔に浸っており、一層このまま目覚めなくても良いとすら思いました。

 夢を見ているのでしょうか。ですが、例の夢のように映像がありません。視覚はなく、感覚だけであり、そして理性に反して、もっと、もっと深く甘い秘境の地へと堕ちて行きたい、そう気持ちはどんどん貪欲となって求めていき、自我を見失いかけていました。

―――沙都、目覚めるのです…。

 …え?力強い優美な声がハッキリと耳の底にまで届きました。それによって夢から目覚めたような気がします。今の声は以前にも耳にした事がありました。

―――眠っている猶予はありません。既に彼女は近くまで来ています。

 彼女…?どなたの事でしょうか?私は疑問符を浮かべているのですが、再び頭の中がフワフワとし始め、上手く相手に伝えられません。相手がとても大切な事を伝えて下さっているのが分かります。女性はどなたなのでしょうか?

―――大丈夫です、私が傍で見守っています。貴女も…そして御子も。

 え?御子?どうして御子が…?

―――さぁ、目覚めるのです。沙都…。

 ふわりと舞い上がるペールブロンドの長い髪、あちらは確か…?女性がどなたかと記憶へと辿り着けそうでしたが、突然、強く引っ張られるような感覚が起こり、そちらに意識が集中して、考えに至れませんでした。

 …………………………。

 徐々に視野が明らかになっていきます。現実が舞い戻ってきたのだと、認識しました。どうやら私は仰向けになっているようです。まだ霞みの取れぬ内に上体を起こし、辺りを見渡しました。

―――ここは?

 まだ完全に夢見から抜け切れていないとはいえ、辺りは何一つ存在しない卸し立ての真っ白なシルクシルクのような空間となっていました。夢から覚めたと思っていましたが、ここもまた夢の中なのでしょうか。見渡す限り、光景が変化するような様子はありません。

 不安が湧き起こり、それを振り切るように私は立ち上がりました。当然、視野が変わる事はありませんが、居ても立ってもいられず、歩いてみる事にしました。

―――夢にしては妙に意識が明確です。

 歩き始めて尚そう現実味を感じておりました。何処までも続く真っ白な空間は妙に目に焼き付き、肌が粟立ちます。その感覚もやはり生々しく感じるのです。

―――まさかこれが現実とは言いませんよね?

 半信半疑で私は記憶を辿ってみます。最後に憶えている事は…そう、確か私はダーダネラ王妃様のお墓の前で佇むオールさんの姿にショックを受け、最上階のテラスへと行きました。そこで思いがけない出来事に遭ったのです。

 エメラルドブルーの海が突如、血のような深紅の色に変わり、私は呑み込まれました。思い出すと、ブルッと躯全体が逆立つように戦慄きます。あのような事、夢でなければ…いえ、夢であって欲しいと願います。

―――この場所も夢ですよね…。

 そう思いたいのですが、あの陛下と女性の夢を見ている時のようなフワフワと浮遊している感じがありません。明確なのは意識だけではなく、感情も生々しいのです。果たしてこれを夢といえるでしょうか。

 再び恐怖に見舞われた私は無意識の内に小走りとなっていました。気持ちが逸り、誰かに、何かに助けを求めるようにして、ひたすら走り続けます。ですが、気持ちとは裏腹に変化が得られません。永劫に続く真っ白な空間なのです。

 私はこのような場所に閉じ込められているわけには参りません。お腹の御子を無事に誕生させなければならないからです。その焦燥感に煽られ、気が付けば額から汗が流れていました。それを目にした私は気付きました。

―――ここは夢の世界ではありません。

 ドクンッと、大きく心臓の衝撃が迸り、暗闇に襲われたように思えました。

―――私は誰かに攫われ、ここに閉じ込められている?誰に…?

 …………………………。

 連れ攫われる直前に目にした深紅の海。海、海…。考えられるのはそう…。胸の内に浮かぶ一人の人物。胸元の拳に力が入り、核心に迫ります。私は懐で身を潜めていた天神の杖を取り出しました。

―――やはり…。

 懐を開いた時から青白い光が見えており、手に収めた時には異様に光りを放っていました。その姿を目にして私は確信したのです。

―――「魔女」が近くにいます。

 私はドクドクと波間に揺れるような心臓の音と共に、グッと杖のグリップを握り、辺りへの警戒心を強めます。…うかつでした。ショックを受けて精神的に弱っている隙を突かれてしまいました。魔女は常に私を狙う機会を狙っていたのでしょう。

 一ヵ月以上も危険のない生活を過ごしていたばかりに、完全に油断をしていました。いくら魔導士達が日常で危険を感知しているとはいえ、この魔女は彼等達の目を欺き、一度宮殿に入り込んでいるのです。宮殿内が確実に安全とは言えませんでした。

 よりによって完全に一人です。杖の、天神の力を信じておりますが、魔女と対戦をして、万が一、命を落としてしまえば、御子の命も絶たれてしまいます。陛下が愛し抜いたダーダネラ王妃様との御子、異世界の住人を召喚してまで守ろうとされた大事な世継ぎです。

―――なんとしてでも守らなければなりません。…え?

 異変が起こりました。視界が波間にゆらゆらと揺蕩い始めます。変化を求めていましたが、このような奇妙な揺れをずっと目にしていれば、酔ってしまいます。なんなんですか、これは。

 禍々しい光景に耐え切れず、私は杖を守るようにギュっと握りしめ、固く目を閉じました。しかし、瞼に焼き付いた揺れは目を瞑っても、余波のように纏わりついていました。

 さらに揺れの動きが強まり、動揺が大きくなると、懸念していた通り酔い始め、眩暈と嘔吐感に襲われます。左手で口元を押さえ、必死で錯乱を押さえようとしますが、ガクガクと震える足元が崩れそうになります。

 もう立っているのもやっとです。耐え難い苦痛を訴えてくる躯とは裏腹に意思は倒れまいと必死に気丈を保とうとしていました。ここで意識を手放してしまえば、「死に至る」そう思ったからです。そして…。

―――何かが近づいて来る!

 そう剣呑な気を感じ取った瞬間、咄嗟に視界を開きました。

――ブワッ!!

 凄絶な一陣の風が躯全体へと叩きつけられ、私は再び目を閉じ、数歩後退をします。

―――な、なんでしょう、この風は!

 予想もつかない事態の連続に、これ以上は心臓がもちません。尚も風に押され続けていましたが、私は抵抗しようと目を開いて、状況を把握しようとしました。

―――!?

 予想を遥かに超える光景に声を失います。

―――あれは…?

 真っ白な煙に包まれるブラウンの影、見上げるのに首が痛くなる程の巨大な物体です。それが近づくにつれ、耳が破壊されるような風圧の音と共に、息をするも与えられません。浮遊しているその影が最も危険な存在である事が杖の狂おしい程の輝きで分かります!

―――キィァアアア―――!!

「ひゃっ!」

 巨大な影から怒り狂った奇異な叫び声が上がったと同時に、強烈な風圧が噴き出されました。ズズズッと後ずさる躯に渾身の力を込め、倒れまいと躯全体で踏ん張ります。どんなに風が強くとも、杖を決して手放さぬよう、死に物狂いで握っておりました。

 ですが、そんな必死さも重圧によって打ち砕かれ、私はとうとう腰が抜けたように崩れ落ちてしまいます。ドスンッと地に躯が当たると鋭い衝撃が走り、短い叫び声を上げてしまい、その痛みがより恐ろしい現実を叩きつけられた気がしました。

 眩暈を伴いながらも、身を守る為に私は力を振り絞って躯を起き上がらせます。私が倒れてから物の数秒の間でしたが、強大な影は姿を露わにしていたのです。それを目に映し出した瞬間……呼吸が停止したように思えました。

―――あれはまさか…ドラゴン!?





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