第八十話「現れた救いの手」
私の腕の中で静かに瞳を閉じたアイリッシュさんを抱いたまま、私は放心状態となった。あまりの出来事に涙を流す事さえ忘れていた。
――こんな事って……。
思考が止まり、頭の中は真っ白に染め上がり、なにも瞳に映せない。
――バックンバックンバックン。
恐ろしいほど脈打つ心臓の音だけが鳴り響く。私は微動だにすら出来ず、安らかに眠るアイリッシュさんの美しい顔を見つめていた。
――?
ある気配を感じた。それに気が付いた時、目の前に手が翳されていた。
「え?」
その手はアイリッシュさんの心臓へ眩い光を放った。私は反射的に目を瞑る。数秒後、光が徐々に弱まってくると、私は恐る恐る瞼を開いた。
「え?」
私は目を疑った。だって力を失って安らかに眠っていたアイリッシュさんの美しいマリンブルーの瞳が開かれていたからだ! どういう事なの? 私はハッと我に返って隣に立つ人物を見上げる!
「!?」
煌びやかな鎧を着用した兵士だった。一瞬、マルーン国の術者かと心臓が飛び出しそうになったけど、あの端整で美しい横顔の下から流れる深い紫色の長い髪は……? 私はみるみる目を大きく見開いた。
――まさかまさかまさか?
「……シャ……ル……ト?」
私は思い当たる人物の名を上げた。私が口をポカンとしている間に、シャルト(多分)の視線はアイリッシュさんの方へと向けられる。
「間に合って良かったわ。私の能力も限界があるから、完全には治療出来ないけれど、命に別状はないわ」
やっぱりシャルトだ! 女性負けするこの声は彼しかいない。私の腕の中でアイリッシュさんの陽射しのような温かい笑みが広がる。
「カッコ良く死なせてあげたかったけど、今アンタに死なれてしまうと、仕事が増えて厄介なのよね。悪く思わないでね」
実にシャルトらしい辛口が飛ぶ。
「君まで来たの? キール様にしこたま怒られるよ?」
「アンタを死なせるよりは怒られないわよ」
「むしろ感謝されるよ、きっと!」
思わず私はニ人の会話に割り込んでしまった。大切なアイリッシュさんを取り戻す事が出来て、きっとキールは涙して喜ぶ筈だ。そしてアイリッシュさんはゆっくりとした動作で躯を起こす。
「この周りの兵士達だけど、アンタ一人で倒したの? アそこの酷い丸焦げになっている兵士は術者のようだけど? その術者とこの兵士相手にしたら、そりゃ死ぬわよね」
「まさか、ボクが倒したのはほんの僅かに過ぎない。後は千景だよ」
「千景?」
シャルトは目を丸くして私を見る。そりゃそうだ! 無力な私がなにをした? って思うよね!
「どうやって?」
「……えっと……それは……」
私は物凄く気まずそうにまごついていると、
「千景の歌声力だよ」
――ひぃ!
アイリッシュさんが即答してしまった! やめてくれ! その事実を私は認めたくないのだ。だってだってだって音痴な歌で人を悶絶させたなんてさ!
「さすがね。あの歌は人を死に追いやると思っていたけど、まさか現実になるとは」
シャルトは私の恥辱をアッサリと認めてしまったではないか!
「ま、まだ死に追いやってないって! で、でも正常に戻るには時間がかかるかもしれないけど(マルーン国術者より)」
「……それよりも千景」
「なに?」
ドスの利いた低い声で私の名を呼ぶシャルトに、私は嫌な予感がした。
「アンタ、これなによ?」
目の前に突き出された「これ」とは私がシャルト宛てに置いてきた「手紙」だった。
「置き手紙のつもりだったんだけど?」
「わかってるわよ、そんな事! でもアンタの母国語で書かれても、私わからないって!」
「え、そうなの?」
言葉が話せるから、てっきり字も読めるのかなって思っていたけど。さらにシャルトからなんで勝手に宮殿から出たんだと叱責され、その間に手紙はアイリッシュさんの目に留まっていた。
「まぁまぁ、あんまり千景を責めないでやってよ。千景がいたからボクは助かったんだし。命の恩人が目の前で怒られているのは心が痛むよ」
アイリッシュさんが私のフォローへと入ってくれた。そしてアイリッシュさんは手紙をシャルトに戻す。
「シャルトに逢えて本当に良かった。私シャルトの事大好きだからね。って手紙には書いてあるよ。千景の君に対する思いに免じて許してあげてよ」
「「え?」」
私とシャルトは同時に声を上げる。そ、そういえば、そんな事を書いていたな。改めて読まれると照れちゃうけどね。シャルトはアイリッシュさんの言葉を聞くと、これ以上お叱りの言葉を投げなかった。
「わかったわよ。でもどれだけ私が心配したかはわかってよね!」
「わ、わかってるって」
捲し立てるシャルト怒鳴り声は本当に頭が痛いっての。まぁ、アイリッシュさんの命を救ってくれたのを考えれば、お叱り事なんて辛くないけどさ。
「そろそろキール様の所に行かないと。随分と遅れを取ってしまったよ」
「そうね」
アイリッシュさんとシャルトの言葉を聞いて、私はドックンと心臓が高鳴る。
波打つ不安が蘇る私の前で、アイリッシュさんとシャルトのニ人が立ち上がろうとした時、フラリとおぼつかない足取りを見せた。
「え?」
――もしかしてニ人とも?
「ニ人とも暫く休んでないとダメだよ!」
確かさっきシャルトは言っていたよね? アイリッシュさんの事を万全に治癒したわけではないって。治癒したシャルトもだいぶ躯に負担がきているんだ。今のニ人に戦える力は残ってないって。
「そうはいかないよ」
アイリッシュさんは私の言葉を即否定した。
「本当にダメですって! せめてもう少し体力が回復してからじゃないと。その躯で戦っても、キールは守れません!」
私の言葉にアイリッシュさんは悔しそうに唇を噛んだ。彼本人も十分に自覚しているようだ。
「千景の言う通りだわ。この体力では却ってキール様に迷惑をかけてしまうわ。少しだけでも休んでからにしましょう」
シャルトが私の言葉を勧めてくれた。
「……わかった。でも本当に少しだけだ」
本当はゆっくりと休まなきゃならない躯なんだろう。一先ず、休む気になってくれたから良かった。私は安堵の溜め息をつく。そして……。
「とりあえず、私は先に行くね」
「「千景!?」」