Birth55「予兆の微睡み」




―――ドクドクドクッ。

 物音一つ聞こえぬ静謐せいひつな中で、ただ自分の胸の音だけが響き、さらに上気する顔の熱によって、頭がクラクラとしていました。まさかオールさんが、このような事をされるとは思いもよらず、動揺を隠せません。

 私の涙する姿を目にして、宥めて下さっているのでしょうか。優しさからくる同情だと分かっていても、彼から伝う温もりが打ちひしがれる私の心を癒してくれるようで、とても心地好い気分でした。

「…申し訳ございません」
「え?」

 頭上からお詫びの言葉が降りて私は驚きました。このような行為を気になさっているのでしょうか。

「先日から物事を軽率に申しており、結果、貴女を多々傷つける形となりました。申し訳ございません」

 グッと抱き締められている腕に力が込められ、彼の言葉が真意であると感じました。思っている以上に、彼は気になさっていたのですね。

「私はアトラクト陛下ではありませんので、不確かな事を申し上げられません。ですが、陛下は陛下なりに貴女を大切になさっている事は確かです。どうかその陛下のお気持ちだけは信じて頂きたいのです」
「…はい」

 私は懐疑かいぎなく、オールさんの言葉を信じました。そして自分の腕がオールさんの背中へ回ろうとしている事に気付きます。そこに陛下をお慕いしている気持ちが一瞬の躊躇いを生じさせましたが、今はこの温かな胸の中で抱かれていたい気持ちの方が強く、心の思うまま腕を回しました。

 どうしてこんなにもオールさんの言葉が嬉しいのでしょうか。心の底にまで沁みる温かさを感じるのです。それは枯れた心にじわじわと浸透し、新たに生きる花が芽吹いたように思えました…。

◆+。・゜*:。+◆+。・゜*:。+◆

 オールさんと別れた私は急いで、午後のレッスンの場へと向かっておりました。何も言わず勝手にサボってしまいましたからね。いくら気が落ち込んでいたとはいえ、レッスンの先生は心配をなさっている筈です。冷静さを取り戻しますと、とても軽率な行動を取ってしまったと深く反省しています。

 そして先程まであの方…オールさんの肌の温もりが残っており、躯の火照りが抜け切れず、さらにドクドクと確かな心臓の音も鳴り終えていません。まるで自分の躯ではないような不思議な感覚です。

 そんな熱に浮かされたまま、歩く前方に意識を戻した時です。現れた人物を目にして、私は夢から現実に引き戻されました。「顔を合わせたくない」そう咄嗟に思い、躯を翻そうとしました。すると…。

「沙都様っ」

 相手に背を向けたと同時に名を呼ばれ、すぐに手を取られました。

―――パシンッ。

 反射的に払い退けた手の音が回廊一面へと響きました。振り返れば相手がハッと驚かれていました。私は自分でも眉間に皺を寄せて、拒否をしているのが分かります。

 相手はすぐに悲哀の色を浮かべられましたが、それ以上に私の心は傷付いたのです。そう、目の前のエヴリィさんによって。オールさんとの会話で彼が私をどのように思っているのか、よく分かりました。

 彼が間違っている事を言ったとは言いません。陛下を慕われているこその本音だったと思います。ですが、もう少し私の気持ちもお考えになって欲しかったのです。いくら私が淡泊とはいえ、私にも心情というものがありますから。

「沙都様、先程…「何もお聞きする事はありません」」

 私はエヴリィさんの言葉を遮り、背を向けて去ろうとしました。今の私に平静を保って彼と話をする余裕などありません。

「沙都様、私の事はどう思われても構いません。ですが、どうかオールの事だけは誤解をなさらないで下さい」
「え?」

 オールさんの名を耳にしますと、思わず動きを止めてしまいました。ここでエヴリィさんの口から、オールさんの名が出てきたのが思いがけない事でした。

「アイツは初めから天神…沙都様の事を気掛かりにしておりました。我が国の一存により、異界の者を召喚し、代理出産と魔女退治をさせる等とんでもない事だと、天神とて一人の女性であると訴えておりました。沙都様をこちらに召喚する事をアイツは最後まで反対していました」

―――え?

 その事実に、私は信じられないと耳を疑う気持ちで振り返りました。瞳に映った決死と悲しみが入り混じったエヴリィさんのなんとも言えない表情に、私は言葉を失います。

「ですが、オールはアトラクト陛下への忠誠も厚い為、最終的には陛下の懇願に従いましたが、アイツは常に沙都様の事を気に掛けておりました。ですので、オールの事だけは悪くお考えにならないで下さい」

―――まさかオールさんが…。

 私は返答に窮しました。今思えばオールさんが私を目にする時、いつも眉根を寄せていたのは私の事を認めて下さらなかったのではなく、むしろ心配して下さっていたのですね。感情を顔に表さない方なので、その優しさに気付きませんでした。

 私はグッと目頭が熱くなり、視界は潤んで霞んできました。先程の出来事でも十分にオールさんの優しさに触れ、心に染み渡りましたが、まさかエヴリィさんの口からも、心温まるお話を耳にするとは思っておりませんでした。

 フッと目に入るエヴリィさんの手が私へ伸びてきましたが、すぐにその手は彼の懐へ引き戻されました。私に触れようとしたのを躊躇ったのかもしれません。

「沙都様、これだけはお伝えさせて下さい。私への信頼が失われたとしても、私は貴女を必ずやお守り致します。既にもう…」
「え?」

―――彼は何を?

 続く言葉を耳にしようとしましたが、エヴリィさんから表情が消え、それ以上の言葉が紡がれませんでした。

―――彼は「何か」を知っている?

 確証はありませんでしたが、咄嗟にそう思いました。時折、彼はある事を口にしようとしても、それを阻む何かがある、それは以前から感じておりました。

―――それはきっと私に関係している事…。

◆+。・゜*:。+◆+。・゜*:。+◆

淅瀝せきれきを思わせる暗澹あんたんとした夜、何かを物語るように吹く微風に押されながら、私は視線を彷徨わせておりました。

―――いつもと違う…?

 明らかにいつもの「夢」とは異なりを感じます。いえ、以前から少しずつ変化はありました。そう、あれからです。寄り添っていた陛下と女性がある日、真剣な様子で話をしていた場面を見てからです。

 二人は仲違いをしている訳ではありません。常に一緒にいましたから。ただ、以前のように穏やかな様子がなくなり、お互いあまり笑顔を見せなくなっていました。

 今は何時なんどきなのでしょうか。時間の感覚が読めませんが、シンと静まり返っている様子から、夜中なのかもしれません。このような時間、みなはお休みをしていますからね。

 一体、何があるのでしょうか。目を凝らすように辺りを見渡していますと、ある一点からフッと影が揺らぐのに気付きました。何かが現れる、そう思った私は視点を近づけました。

 姿を現したのは陛下でした。辺りは暗くとも彼の神々しいオーラで判然としていました。ところが、彼の輝かしい風姿とは異なって、表情は憂いに翳っています。それにいつもは一緒にいる女性の姿が見当たりません。こんな事は初めてです。

 陛下は視線を落とし、何処かを見つめている様子でした。その一心なさっているお姿は何かを求めているようでした。テラスやバルコニーといった高い場所から、地上をご覧になっているのでしょうか。なにを見つめているのか気になり、私は陛下の視界の先へと近づいてみました。

―――あちらは?

 ザァッと波打つ音を耳にし、視線の先が海である事が分かりました。という事はやはりこの場所はテラスなのかもしれません。このような人気ひとけのない真夜中に何故、陛下はお一人でいらっしゃるのでしょうか。

―――海、海…。

 真っ暗闇で何も映し出されていないのですが、海の波打つ音が耳の奥にまで響きます。気が付けば、海を見ていた場所が微かに歪み始め、私は我に返りました。

―――?

 違和感です。辺りが先程とは異なり、なんと説明すれば良いのでしょうか。視界がゆらゆらと揺れており、これはまるで水中にいるような感覚です。陛下の姿もありません。ここは?一瞬で光景が変わったように思えました。

―――どういう事でしょう?

 ここに何があるのでしょうか?いえ、何が起きるのでしょうか…。

―――?

 またです。陛下が現れた時のようにフラリと揺れ動く影に、私は釘付けとなります。揺蕩たゆたう影の周りだけが灰明るくなり、人の姿を映し出しました。

―――あちらは…例の女性?

 相変わらず光景はゆらゆらとしています。女性は背を向けていますが、スラリとした背中に流れる美しい髪から、いつも陛下と一緒にいるあの女性で間違いないでしょう。彼女は片手を上げて天を仰いでいました。何かを求めるようにして…。

 これは先程の陛下が見下ろしていらっしゃったのに対し、女性は見上げており、互いが互いを求め合っているという事でしょうか。どういう事でしょうか?二人は一緒にはいられなくなったのでしょうか?

―――ドクンッ。

 急に波打つ鼓動、危険なシグナルのように、神経が逆立っていくのを感じ取りました。自分の意思とは関係なく、視界が徐々に女性へと近づいていきます。

―――ドクンドクンッ。

 彼女には近寄ってはいけない、そう躯は訴えかけているように脈打ちがどんどん速くなっていき、

―――ドクンッ。

 再び心臓が大きく荒波を立てました。視界が女性の顔へと近づいていくからです。

「え?」

 今までどんなに女性の顔を覗こうとしても、見る事が叶いませんでした。それが何故?さらに彼女は何かに反応をし、顔をゆっくりとこちらに振り返ろうとしていました。女性の顔へと近づいた視界は彼女のある部分を大きく映し出します。

―――あれは……深紅の瞳?

 そう気づいた瞬間、ドクンッ!と心臓に鋭い衝撃が迸り、映像がシャットアウトされ、同時に私の意識も闇の中へと堕ちて行ったのです…。





web拍手 by FC2


inserted by FC2 system