Birth53「陛下の想い」




 昨日さくじつ、大庭園でオールさんと別れてから、ずっと私は胸が塞がれている思いでした。胸の中で暗いモヤモヤとした不安が霧のように広まり、午後のレッスンも心ここにあらずの状態で受けておりました。

 不安事を抱えるのはお腹の御子にも良くありません。深く考えないようにしようと自分に言い聞かせていたのですが、そう思えば思う程、不安は広がっていきました。

 ですが、夜を迎えて陛下の寝室へと参り、いつもと変わらぬ彼の笑顔を目にして、ようやく胸がすく思いとなりました。陛下の笑顔一つで不安が喜びに変わるのです。

 今は陛下を目にすれば、嬉しさが胸の外に溢れ出すようなたまらない気持ちとなります。これもやはり彼が私にとって特別な存在だからでしょうか。

 そして朝の見送りの時間です。出入口の扉の前で私は手を振り、お付きの方々を引き連れる陛下を見届けます。いつもと何も変わらず、この時の私は平常通りに落ち着いていました。陛下の姿が見えなくなりますと、私は自分の支度へと入りました。

―――数十分後。

 ナンさんが迎えに来られるまで、自室で待機しておりました。結局、昨日は一日ナンさんと顔を合わせていないんですよね。どうやら事の問題が大きかったようで、彼女は会議に時間を要していたようです。なんだかんだナンさんも家政業務の地位は高いですからね。何かあれば責任を取るポジションにいます。

 昨日で問題が解決したと聞いておりますので、今日からまたナンさんが来て下さる予定です。最近はナンさんも陛下の次ぐらいにお腹の御子の存在を喜んで下さいますからね。朝お会いすれば、一番に私のお腹に手を当ててこられます。

―――トントントン。

 ナンさんの事で思い出して一人微笑んでいましたが、ノックの音が聞こえ、我に返ります。そしてすぐ扉を開けに行きます。

「…あら?」

 思わず声を洩らしてしまいました。目にした人物が昨日お迎えに来られた侍女さんと同じ方だったからです。

「おはようございます、沙都様。お迎えに上がりました」
「あの、もしかして今日もナンさんは?」
「はい、さようです。新たな所用が入り、ナン様はそちらへと向かわれました。誠に申し訳ございません」
「いえ、お顔を上げて下さい」

 深々と頭を下げてお詫びを入れる侍女さんに返って恐縮してしまいます。ナンさん、お忙しいようですね。本来、私にずっと付き添えるようなお時間は無いのかもしれません。今まで陛下のご命令という事もあって、無理に合わせて下さっていたのかもしれませんね。

「私は構いませんので、どうぞご案内をお願いします」

 私は侍女さんにそう伝えると、部屋を後にし、一緒に食卓のへと向かいました…。

◆+。・゜*:。+◆+。・゜*:。+◆

「ふぅ~」

 レッスンの部屋から出てすぐに深い溜め息をつきました。今日のスケジュールはハードです。乗馬とダンスが同日に入っている時は大変です。妊婦でも手加減ありませんからね。運動のレッスンの時は着替えもしなくてはならないので、手間がかかります。

 午前中のハードなレッスンを終えた後、昼食と休憩を済ませ、午後のレッスンへと入っておりました。実は午前中のレッスンを終えた時点で、ドッと疲労感に襲われており、午後一のレッスンが終わった今、思わず深い溜め息をついてしまった訳です。

 そして普段のレッスンに加え、私の希望ではありますが、マタニティーレッスンを受けていました。出産した後、御子のお世話はお付きの方々がされるそうなので、私の手を煩わせる心配はないと聞いておりますが、そうは参りませんよね。

 自分が出産する子ですからね。ミルクからお風呂、おしめの替えなど様々にお世話をやっていこうと思っています。代理出産とはいえ、陛下との子です。私の手で育てて行きたいのです。

 出産の話を聞いた当初は不安ばかりでしたが、今はすっかり待ち遠しくて仕方ありません。陛下もご様子からして御子をとても大事にお育てになる筈です。一緒に育てていく様子を想像するだけで、温かな幸せを感じます。陛下と共に大切な時間にしていきたいと思っています。

 さて次の場所へ移動しなければなりませんね。次の移動先はそう遠くないので、いつも付き添って下さる侍女さんをお呼び立てしませんでした。あまり人の手を煩わしたくないのですよね。

―――?

 ある渡りの回廊前を通ろうとした時です。遠目で横側からではありますが、他の方とは明らかに異なるオーラを感じさせる人物を目にして、私は立ち止まりました。

―――あちらはまさか…?

 艶を帯びた流線的なアッシュブロンドの髪、幾重もの繊細なデザインが色鮮やかに広がる礼服の上から肩布を流す、あちらはまさにアトラクト陛下ではありませんか。お一人でいらっしゃるようで、どうやらある場所を見上げていらっしゃるご様子です。

 ここは芸術の塔であり、やはり名にちなみ、何気のない場所でも細部まで手が施された芸術となっています。陛下がご覧になっている壁も色彩画が天井まで続いたアートの世界となっていました。思わず足を止め、ご覧になる気持ちも分かります。私もこちらの塔の中を歩くと、所々で目を惹く芸術品と出会いますから。

 陛下だと気付いた私は急に胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じ、同時に鼓動が早鐘となって打ち始めます。日中は滅多にお会いする事がありませんので、偶然の出来事に感極まる気持ちが隠せません。

 少し距離があるからでしょうか。陛下は私には気付いていらっしゃらないようです。私は早く顔を合わせたいと気持ちが早まり、速足で彼へと向かいます。ところが、近づくにつれ、私は速度を落としていきました。

 理由は陛下がご覧になっている絵を目にしたからです。その絵は鮮やかな花と緑の自然に囲まれた風景をバックに陛下とダーダネラ王妃様が互いに胸元で手を合わせ見つめ合う美しいフレスコ画でした。そして陛下の横顔を目にして、ドクンッと心臓が大きく波打ちました。

―――なんて切ない表情をなさっているのでしょうか。

 今までに覗かせた事のない酷く哀愁に翳っています。そのご様子に、私が近づいてもまだ気づいて下さらず、ずっと絵を一心不乱に見上げていらっしゃるのです。今の陛下には他の者など目に入らぬご様子でした。

 そんな陛下に私は微動だに一つ出来ず、その場で立ち尽くします。暖かい陽射しが差す清閑な空気に胸は締めつけられるように重く、ヒシヒシと痛みを感じます。さらに…。

「ダーダネラ…」

―――え?

 目の前の陛下が呟くように王妃様の名を零されたのです。

「すまない、其方の命を守る事が出来ず。生涯何があろうとも共に生きていくと誓った愛を守れず、本当に…本当にすまない」

 紡がれた言葉は行き場を失った胸の思いを無理に吐露されたように思え、あの常に凛然となさっている陛下がお顔を俯かれました。

―――泣いていらっしゃる…?

 肩を震わせ俯かれる陛下のお姿は悲痛を物語っていました。そのご様子を私は茫然と見つめます。今の私に何が出来るというのでしょうか。

 陛下は今でも亡くなられたダーダネラ王妃様の姿を追い求めていらっしゃるのです。そのお心の中に私が存在しているとは思えません。そう悟った私は心が一瞬にして粉々に砕け落ち、その場から消えるようにして去りました…。





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