STEP64「マラガの森の精霊」
――駄目だ! 振り向くな!
「え?」
突然と頭の中に警告を落とされ、私の動きは制止する。
――今の……声は……?
荒げた声であっても気付く。この声はルクソール殿下だ! な、なんで殿下の声が聞こえてきたの!? こんな場所に殿下がいるわけないのに。私は訳もわからず辺りを見渡すが、暗闇となっている周りから状況が掴めない。
「きゃんきゃんきゃんっ」
――ハッ!
子犬の悲鳴で我に返る。そうだ! 今、私の背後ではルクソールがジュエリアに捕まって酷い目に遭おうとしているのだ! だが、振り向く事に躊躇いが生じていた。さっきの殿下の忠告の声、それに……。
――絶対に後ろへは振り返っちゃダメだよ? 例えなにがあってもね。
脳裏に鮮明に浮かび上がる、ネープルスからの言葉。あれはどうみてもリアルだった。彼が私を陥れたいのであれば、二度も忠告するだろうか。そもそも教える事すらしないのではないか。
それと、さっきルクソールは私の声になにも応えなかった。という事は背後にいるルクソールとジュエリアは偽物ではないだろうか? そう判断した私は先へと進もうとした。ところが……。
「きゃんきゃんと煩い子犬ね! まずはその口から燃やしてあげようかしら?」
「きゃんきゃんきゃんっ」
――!?
ジュエリアの残酷な声によって、再び私の心に葛藤が始まり、そして悪い考えが沸々と湧いてくる。そもそもネープルスの友達の話は本当だったのだろうか。端から私をこの森に閉じ込める為に、ルクソールを利用しているのではないか?
――そしたら背後にいるルクソールは本物?
「続いて目かしらね? その次に尻尾、最後は一気に躯を燃やして跡形も無くしてあげるわ。ふふふっ」
ジュエリアはとんでもない事をしでかそうとしている。このままではルクソールが殺られてしまう!
「きゃんきゃんきゃんっ」
――ル、ルクソール!
「ふふふっ、まずは口からね」
――ボッ!
火が灯る音が耳奥まで響いた。ま、まさか!?
「きゃんきゃんきゃんっ!」
「や、やめなさいよ! ジュエリア!!」
私は振り返る事なく、大声を上げて止めに掛かる!
「あらあら、貴女は背を向けていて、このコを見捨てる気なのかしら? ふふふっ」
「きゃんきゃんきゃんっ」
ジュエリアは私が振り返られない事を知っていて、カマをかけてきているのだろう。そしてルクソールは「ボクを助けて助けてっ」と、叫んでいる!
――ど、どしたらいいの!?
私は瞼を伏せる。自分を守るか、ルクソールを助けるのか……。
「時間切れね。じゃぁ、口から行きましょうね~」
「きゃんきゃんきゃんっ!」
――ボボボッ!
炎が揺らぐ生々しい音が耳朶を震わす。
――やっぱり、私にはルクソールを見捨てられない!!
私は覚悟を決めて振り返ろうとした。その時!
――ヒナ! まやかしの幻聴に耳を傾けるな!
「で、殿下?」
――また何処からか殿下の声が? ど、どういう事……?
私は錯乱状態に陥る。ルクソール、ジュエリア、殿下……もうなにがなんだかわからない!! すべてがまやかしに声に聞こえていた。
――いいから走れ! 真っ直ぐに走れ!!
「で、でも、ルクソールが!」
――ヒナ! オレの言葉を信じろ!!
「!!」
その力強い殿下の言葉が私の頭の中いっぱいを占めた。殿下が偽りを言う筈がない、私を惑わすわけがない! そう確信した時、パァン! と迷いが弾け、私は全速力で走り出していた。
――今は殿下の声だけを信じる!!
私は走って走って走り抜けた! その間もまやかしの声が止む事はなかった。炎が燃える音、ルクソールの悲痛の声、ジュエリアの高笑い、どんなに耳に蓋をしても恐ろしく鮮明に聞こえてくる。ルクソールの断末魔の如く鳴き声に、私はボロボロに涙を流しながら、振り切って走った。
何度振り返ろうと思った事か、何度足がもつれそうになったか、背徳感と闘いながら、私は道ならぬ道をひたすら走り続けた。酸欠で息苦しい。何処までも続く常闇が死を匂わす。たったの数秒間が永遠にも感じるほど、長く長い時間だった。
それから走って走って走って走り抜けた時、フッと視界が開け、なにかが映し出された。闇と紛れて非常にわかりにくいのだが、なにかが建っているのだ。竦む足を私はなんとか止める事なく、死に物狂いで向かって行く。
――あれは!
近づくにつれ、なにやら尖塔の建物が見えてきた。この時はルクソールとジュエリアの声は一切届いておらず、私はひたすら建物へと全速力で走って行った。だいぶ近き、それが小屋ではないかと察した時、私の心に眩い光が輝く。
「もしかしてここが?」
足を止め、ゆっくりゆっくりと小屋へと近づく。すると……?
――え?
辺りの暗闇が灰明るくなっていく。
「どういう事?」
茫然としている数秒間で辺りに陽射しが差し込み、昼間のような明るさに変わった。そして目の前には小屋が建っていた。真っ赤な屋根が印象的な……えっと、あれはお菓子の家? 私はパチパチと二回瞬きをする。
外壁も煙突も出入り口扉にも、ありとあらゆる場所がチョコレートや飴、マルチパン、マシュマロ、グミ、ドーナツといったもので出来上がっている。これはかの有名な童話ヘンゼルとグレーテルに出てくるお菓子の家を思い浮かんだ。
小さい頃、作品を読んだ時、お菓子の家なんて超夢のようだ! と、興奮した憶えがあるが、現に目の前にしてみると、見ているだけでお腹いっぱいにさせられる、デッコデコのデコレーションだった。
――パタパタパタッ。
「(。´・ω・)ん?」
頭上からなにかか細くパタパタと羽ばたく音が聞こえてきた? フッと視線を見上げると、
「うわぁっ」
なにかの黒い影がヒュンッと飛んでいる姿を目にして私を驚きの声を上げた! さらにその影はシュッと飛躍し、私の目の前へと飛んできた!
「!?」
さっき一瞬目にした時は逆光で黒い影に見えたけど、こ、こ、これは……! ラクダ色のもふもふの毛、目や二つの耳、鼻周りや体つきが丸い、それにピーターパンに出てくるティンカーベルのような繊細な羽をフワフワとさせている。
チャームポイントは耳に着けているドット柄の赤いリボンと真っ赤な口紅を塗った唇だろうか。お、女のコって事だよね?|д゜) 私は目の前に現れた物体をマジマジとガン見する。こ、この物体を一言で表すなら……。
――羽の生えたテディベアだ!
な、な、な、なにこの物体! テディベアだから可愛いといえば可愛いんだけど、パタパタ羽をばたつかせて浮遊しているし、ぬいぐるみなのに真っ赤な口紅をつけて、な、なんか、キョ、キョワイ!
「は、羽付きのクマのぬいぐるみがなんでいるの!?」
――シュッ!
「ぐぅっ!」
突然クマが身を翻して一回転したかと思えば、私の顔に足蹴りを飛ばしてきた! ぬいぐるみの足蹴りだから、そこまで圧力を感じなかったが、いきなりなんなの!?
「なにするのよ!?」
私は蹴られた左頬を手で押さえながら、クマに向かって怒号を上げる!
「クマのぬいぐるみじゃないわよ! 私は美しき聖霊よ!」
「げぇっ!」
今の私の短い叫びはクマの発言に驚いたのではない!
「ちょ、ちょ、ちょっと、アナタ! オ、オ、オ、オネェのクマなのおぉおおおお~~~~~!?」
私の雄叫びが辺り一面に木霊する。そう、クマの声は明らかに掠れたハスキーの男性声だった! しかも女性言葉! なにこのクマ!? オネェとか超意味わかんない!!
――シュッ!
「ぎゃっ!」
クマから二回目のキックが入った! んにゃろぉおお!! 私はギッと睨み返す。クマの方は腰に短い手を当てて、私と対峙していた。
「失礼よ! 可憐な乙女に対して、なんていう失言するのよ!」
――そのダミ声でなにが可憐な乙女だ!
「失礼なのはアナタよ! 二度も私の顔に足蹴りしてきて!」
私は負けん気にクマへと歯向かう。
「だまらっしゃい! この二本足で立つ犬め!」
「は? だ、誰がパグよ!」
パグってあのぶちゃカワの犬の事を言っているんじゃ! こっちの世界にもいるんかい! って、そんな事に着眼している場合ではない!
「私は歴とした人間よ!!」
「……人間? 人間がどうしてこんな所にいるのよ?」
ここでクマが深く眉間に皺を刻む(ぬいぐるみなのに表情が豊かに変わるのだ)。
――ハッ! そ、そうだ、本来の目的!
「ま、まさか! ネープルスさんの友達の精霊なの!?」
リアルならガチないない! 精霊と言えば、エルフのような耳がとんがった美しい女性像を思い描いていたのに、今目の前にいるのは紛れもなくクマのぬいぐるみだ! (しかもオネェ)クマは茫然として私を見つめていたが、ふぅーと軽く溜め息を零した。
「ネープルスの話だと人間の女の子が来ると聞いていたのに、まさかフレンチブルドッグが来るだなんてね」
「だから私は人間だっての!」
パグだのブルドッグだの、わざとぶちゃカワの名前を上げよって! この精霊の人間像はどう見えているのだ!
「って……アナタがやっぱりネープルスの友達なのね!」
「そうよ、私はネープルスと友達の美しき聖霊よ!」
と、またもや「美しき」とドヤ顔で強調してきた。どうやらこのクマは自分を美しいと讃えているようだ。
――ガチかよ!
「ぐぅ゛~~~っ」
私は声にならない声で唸りを上げる。いやだってね、まさかだよね! こんな乱暴でオカシな精霊が本当に私の味方になってくれるのかどうか、先が思いやられるんですけぉおおお!!