STEP63「マラガの森での試練」
「ぎゃっ!!」
常闇のような深淵なる森に絶叫が木霊する。私はすぐに身を縮めて口を塞いだ。こんな声を出したもんなら、得体の知れないものに目を付けられ、襲われてしまうかもしれない!
――さっきから、あの声はなんなんだ!
先程から何度も耳奥を震わす、人の泣き声をあやふやにしたような気持ち悪い音。獣かなにかが吠えているのだろうか。こちらの世界の動物なんて目にした事がないし、気味が悪いのなんのって!
如何にもこれから心霊現象が起こります的な、この恐ろしい場所が例の「マラガの森」であった。精霊が棲んでいると聞いていたから、陽光が差し込むような美しく神秘的な森だと想像していたが、鬱蒼と生い茂る森には殆ど陽射しが照らされず、昼間なのに薄気味悪い。
動物どころか虫ですら生息している様子も窺えない、只々気味の悪い鳴き声が響いてくるだけ。そんな場所に私は身一つで放り投げ出され、そして簡易ランプの光だけで進んでいた。入口からから十分~十五分ほど経っている頃だろうか。
ネープルスはただ真っ直ぐに進めば良いと言っていたが、道は舗装などはされておらず、既に自分が真っ直ぐと進んでいるのかすら、わからない状況だ。こんな場所に身一つで来させられたんだから、堪ったもんじゃない!
――……っ………っ………っ……。
また聞こえてきたよ! あの奇妙な鳴き声が……。私は身の毛がよだち、無意識の内に耳を塞いだ。少しでも恐怖を紛らわす為に、ネープルスとのやり取りを回想する。
「そのマラガの森にはどうやって行けばいいのですか? 私、仕事中の身なので許可を貰わないと宮殿から出られません」
マラガの森に行く事を決意した私は冷静に先の事を考えていた。勝手に宮殿の外に出たら、脱走したと思われる。だから殿下やグリーシァン達に許可を取る事から始めないとならない……そう思っていたのだが。
「無理に許可を取る必要はないよ。時間もないしね」
――いやいや、そりゃヤバイだろ。
私は心の中で透かさずネープルスに突っ込んだ。
「それはさすがに出来ないですよ」
「ここからすぐに通って行けばいい」
「はい? ……ぎゃあ!!」
私は驚異の雄叫びを上げる! 突如目の前に暗黒のモヤモヤが現れた! 空間に黒い穴が空いたような妙な光景で、ちょうど人が一人入れる大きさをしていた。
「なんなんですか、それは!」
「この扉はマラガの森の入り口へと繋がっている」
「へ? ……もしかしてワープ出来るって事ですか!」
「そうだよ」
ネープルスはシレッとて答えたけど、うん……かなりおったまげな事なんですけど? また一つ生々しい魔法を見せつけられて、私の心臓がドクンドクンッと高く波打つ。
――本当に大丈夫なのだろうか。
今ならまだ断れる。只そうしてしまえば残された道は確実に死だ。それかアッシズに救いを求めるか。だが、それも必ずしも命の保証がされるわけではない。どの道を選んでも死へのリスクを伴う。
となれば、この時の自分が一番納得する道が……。ジュエリアを見つけられるのであれば、僅かな希望でも飛びつきたい。ヤツを見つけて法の下で裁く、その道を取るならば。
――ゴクリ。
視線を黒いモヤモヤへと移すと、躯が硬直して喉元が鳴った。
「さぁさぁ急いで。事は早めに終わらせた方がいい」
ネープルスから催促され、私は躊躇う気持ちはありつつも、足を一歩踏み出す。ゲートの前まで来ると、ふと足を止める。
――実に毒々しいオーラだ。
炎のような煙る黒いオーラは質量感も匂いも全く感じさせないが、その姿は実に奇異で禍々しい。
「本当にただ真っ直ぐに突き進むだけなんですよね?」
ゲートへ入る前に私は再度、ネープルスへ確認を取る。
「うん、本当に真っ直ぐと進むだけだから。そしたら赤い三角屋根の可愛らしい小屋へと着く」
「どのぐらい歩くんですか?」
「う~ん、人によってマチマチかな? 数分で着く人もいれば、数時間あるいは数日かかる人もいるみたい」
「それオカシくないですか!」
すんごい怪しいわ、それ! 確かに人によって歩く速度は違うけど、数分と数日の差は違い過ぎる! やっぱ行くのをやめた方が……。
「友達の彼女と会えたら、ボクの名前を言うといいよ」
私の鋭い突っ込みは素で流された。もうネープルの中では私が森に行く事になっている。
「あの、お友達はどんな精霊さんなんですか?」
「ほらほら早く入った方がいいよ。あまりここで立ち話をしていると、あの悪女に気付かれでもして、妨害してこられると厄介でしょ?」
「……っ」
――悪女というのはジュエリアの事か。
アイツは何処かで私を見張っている。ネープルスの言う通り、モタモタしていたら妨害にやってくるかもしれない。邪魔をされてたまるか! そう思った私は反射的にゲートに足を踏み入れた。するとゲートのオーラがユラユラと揺れてガチビビッた!
「あ、そうそう大事だから、もう一度伝えておくけど」
「え?」
「絶対に後ろへは振り返っちゃダメだよ? 例えなにがあってもね。もしそれを破った時、君は永遠にマラガの森の中を彷徨う事になるから」
「わ、わかっていますって」
その約束事はしっかりと脳裏に焼き付いてるって! 森の中に閉じ込められるだなんてゴメンだ! 私の返事にネープルスは微かに笑みを零した。そして……。
「じゃぁ頑張ってね、ヒナちゃん」
「え?」
最後にいきなり愛称で呼ばれたからビックリした。
――私の名前知っていたんだ、なんで?
という素朴な疑問は暗黒のゲートへと入った時には歪んだ空間に気を取られ、綺麗サッパリと消えていった……。
――今更だが、この選択が正しかったのかと不安ばかりしかない。
と、後悔をしたところも、もうどうしようもない。今はひたすら前へと進んでいくべき。決して後ろを振り向かないようにして……。
――……っ………。
「?」
背後からなにか音が聞こえた? 例の奇妙な鳴き声ではないようだ。
――……ぅん………。
もう一度、音を耳にする。さっきよりも明確に。今のは動物の声? 声の正体を知りたいが、後ろへ振り返る事が出来ない。足を止め躊躇う。いや、考えるまでもない。後ろへと振り返った時点で、私はこの森の中に閉じ込められてしまう。気に留めずに私は進もうとした。
――くぅん……。
「え!」
思わず声を張り上げて後ろへ振り返りそうになったが、寸前でブレーキがかかった。
――今の声、ルクソールだよね? なんで彼がここに!?
私は愛らしい子犬のルクソールの姿を思い浮かべて吃驚する。
――ドクンドクンドクンッ。
心臓の音が不規則に速まる。ま、まさかと思うけど、ルクソールは私の後を追って来たとか? 宮殿で私がゲートに入る姿を何処からか目撃して、ついてきてしまったのだろうか。
――くぅん、くぅん……。
切なげな鳴き声が辺り一面へと響き渡る。
「ル、ルクソール……」
どうしてそんなに泣きそうな声で呼ぶの? 私が振り返らないから? 無視しているんじゃないかと思っているから? 無意識に自分の顔が後ろへと振り向こうとしていく。
――ドクンッドクンッドクンッ。
鼓動を打つ音が頭に酷く響いている。フッと私は瞼を伏せてしまった。本能が働いて振り返る事が出来ない。ネープルスは二度も忠告をしてきた。決して後ろへ振り返ってはならないと。
――ルクソールの声は罠……?
本当にルクソールであるならば、きっと私の前に飛び込んで来てくれる筈だ。
「ル、ルクソール! お願いだから私の前に来て!」
私は前を向いたまま、後ろにいるルクソールへと向かって懇願する。彼は人間の言葉が理解出来るコだ。本物のルクソールなら私の願いを聞き入れて来る筈。ところが……。
――シ――――ン。
なにも音沙汰がなかった。辺りは不気味なほど静寂に支配されている。
「ルクソール! 私は後ろへは振り返ってはいけないと言われているの! だから私の前に来て、お願い!」
もう一度、私は強く懇願した。だが、やはりなにも変化が得られない。という事は……?
――ドクンッ!
本能が剣吞を感じ取った。その瞬間、私はギュッとランプを強く握って駆け出していた。歩いて進んでいる場合ではない! この森は本当に危険だ! 早く例の精霊の場所に辿り着かなければ! ダダダダダッと私は全速力で森の中を駆け走って行く。
――くぅん! くぅん! くぅん!
ルクソールの鳴き声が私を追いかけていた。その声は「待って! ボクを置いて行かないで!」と、叫んでいるように聞こえた。私は罪悪感に苛まれる。
――ごめんねごめんね、ルクソール!
私は心の中で何度も何度も謝った。あんなに私に縋るように鳴いて走っているルクソールを私は見捨てているのだ。でもどうしても振り返る事が出来ない。葛藤に精神が発狂してしまいそうだった。
その間にもルクソールの鳴き声はずっと私を呼んでいた。私は心を鬼にして走り続けた。一体、何処を走っているのかもわからない! 奥へ進めば進むほど、深い暗闇の中へと紛れ込んでいき、視界が悪くなる。
恐怖も上塗りされていく。灰明るかった入口へと戻りたい。しかし、振り返る事すら出来ない。ルクソールにも追いかけられている! 姿を見てはいけないと警告が鳴る! もう頭の中がグチャグチャだ!!
――ふふふっ……。
何処からともなく女性の薄気味悪い笑いが木霊する。危険な信号の知らせであると察した私はその場に立ち止まり、辺りへと警戒を始める。
――ふふふっ!
二回目の高笑いで気付いた。この声は「アイツ」だと!
――ジュエリア!!
なんでアイツがここに!? それこそ宮殿から私の後をついてきたのだろうか。……いや待て、そもそもジュエリアは……ネープルスだったのか? 思わず背後へと振り返りそうになったが、またギリギリのラインで寸止めした。
なにかが私を惑わしているだけなのかもしれない。今はジュエリアがネープルスかもしれないという疑惑も振り払って、私は再び走り出そうとした。今一番なにをしなければならないのか、それは突き進んで精霊に会う事だ!
「きゃいんっ、きゃんきゃんっ」
――え?
なに……今の? ルクソールの喚く鳴き声に聞こえた?
「貴方はヒナのお友達かしらね? ふふふっ」
「きゃんきゃんっ」
――な、なに? なにが起きているの?
背後でルクソールのもがいている必死の声が聞こえてきている! まさかジュエリアに捕まって!?
「ふふふっ、これから貴方を焼き潰してあげるわ」
「きゃんきゃんっ」
――ルクソール!?
ルクソールの身の危険を感じた私は反射的に背後へと振り返ようとした……。