STEP52「嵐の予兆を目の前にして」




 グリーシァンと別れてから、すぐに私は地団太を踏んだ。

 ――あ~ムカつくムカつく!

 ヤツの姿が見えなくなった途端、ジワジワとムカッ腹が込み上げてきたのだ。さっきのヤツの対応は完全に人に当たっていたよね! 以前からヤツの態度は目に余りまくりであったが、今日はいつも以上に酷かった。

 確かに私が現われたタイミングが悪すぎたってのもある。プライドの高いアイツの罵声を上げられている姿なんて汚点だっただろうし。だとしても、人を傷つける言葉を言っていい理由にはならない。言葉を選ぶ配慮を身に着けてくれっての。

 ――もう気持ちを切り替えよう。あっ、しまった、ヤバイヤバイッ!

 派手に地団駄を踏んだからか、きちんと包んでポケットに入れていた筈の粉洗浄が、いつの間に零れ散って宙に浮き始めていた。これ通常は息を吹きかけて浮遊するのに、なんで勝手に飛んでいるんだ! んでもって粉は壁や天井に張り付いてしまい、汚れを識別する色まで現われてしまった。

 ――あ~もう!

 私は手に持っていた霧吹きスプレーで素早く泡を撒いて、吸引機で吸い上げようとしたが。

 ――しまった!

 吸引機の口替えをするのを忘れていた。吸引機は吸込口すいこみぐちが汚れると、引力の効果が無くなる為、定期的に取り替えが必要であった。今、ちょうど交換時期だったのを忘れていた。替えなきゃ吸い込みが良くないよ~。

 このままの状態で、この場から離れなきゃならないのは忍びないけど、とにかく新しい吸込口を取り着けなきゃ、どうしようもないわ! 私は急いで新しい吸込口をもらいに行こうと、クルッと身を翻した。その時だ。

 ――ボスンッ!

「うわっ!」

 人がいたのを気付かず、露骨に相手の躯にぶつかってしまった。ガタンと吸引機が派手に落ちる音が回廊一面へと響く。私は顔面打たれた衝撃でジンジンしている鼻を押さえ、相手に即行に詫びの言葉を入れる。

「ス、スミマセン!」

 そして相手の姿を目にした時、酷く吃驚する。寒気を誘うような蒼白とした顔の……。

 ――サロメさんだ! ど、どうしてここに!

 今は王太子に付きっきりじゃないの? 今の私はあからさまに驚いた表情をしているだろう。そんな私とは反対にサロメさんはいつもと変わらない無表情で落ち着いている。

 ――見慣れた顔であるのに、今は酷く恐ろしく見える。

 これも彼女がジュエリアかもしれない可能性を潜めているからだろう。なにも声を掛けられず、私は困惑したままサロメさんを見つめていた。

「なにをしているのです?」
「え?」

 突然に問われて私は固まる。特にやましい事はしていないのに、悪い事をして見つかってしまったような、そんな具合の悪さを感じる。そんなたじろぐ私の姿に、サロメから叱責の声が上がる。

「え?ではありません。今のこの有り様はなんです? この場所を泡だらけにして去ろうとしているのは何故です?」

 ――そういう意味か。

 てっきりジュエリアの件を遠回しに探っているのかと思ったら泡の事か。少しばかり私は胸を撫で下ろした。

「違います。逃げようとしたわけではありません。吸引機の吸込口が汚れていて、吸引が出来なかったので口の替えを取りに行こうとしただけです」
「そうですか」

 私の説明にサロメさんはすんなりと聞き入れた。そして彼女は自分の足元に転がっている吸引機を拾い上げる。

「あ、スミマセン。渡して下さい」

 拾わせた事に素直に悪く思った私は吸引機を受け取ろうと腕を伸ばした。そう何気ない行動であったのだが……。

 ――え?

 差し出した右手から光りが宿る。それを目にした瞬間、ドクンッ! 私の心臓は脈打ち、ヒヤリと背筋に悪寒が走った。

 ――しまった!

 刻印がサロメさんに反応をして光りは放ったのだ。すぐに引っ込めれば良かったのに、私は無意識の内に手の平を開いてしまった。浮かび上がる赤い花の刻印。こんなのを彼女が目にしたら? 刹那、私は凍り付く。サロメさんが私の刻印をジッと見つめていたからだ。

❧    ❧    ❧

「サロメ侍女長に刻印を見られた?」
「はい……」

 グリーシァンの問いに、私は抑揚のない声で答えた。沈んだ表情をしている私の顔をおのずと下を向いてしまい、目の前のグリーシァンはおろか殿下やアッシズがどのような表情をしているのか、怖くて向けられない。

「一体なにがあってそうなった?」

 今の声は殿下だ。声色は険しさを感じない。それでも私は安心出来なかった。サロメさんに刻印を見られてしまった事をすぐに報告するべきだと判断した私は彼女と別れた後、すぐにグリーシァンを掴まえて話を聞いてもらいたい事があると無理やりに押した。

 私の様子が変に必死だったからか、あのグリーシァンが耳を傾けた。そして話は毎朝ミーティングをおこなっている部屋で聞くと言われ、その前に私は泡でモコモコにした回廊の残りの清掃をしに行った。

 その後はすぐにミーティングルームへと向かうと、なんと殿下とアッシズまで同席しているではないか。とても気が重たかったが、刻印の件はきちんと三人には話しておいた方が良いかと素直に諦念した。

 サロメさんに手の平に浮かぶ刻印を見られた時、私はサーと血の気が引いて青ざめた。一瞬にして私の世界は真っ暗闇化したのだ。ジュエリアかもしれない彼女が、この刻印を目にしてどう思うのか。

 この状況はかなり危険ではないだろうか。彼女にとっては自分をジュエリアだと知らせる危険なものだって思ったかもしれない。ドクンドクンと脈打ちが私の心臓とこめかみを打ち突く。完全に硬直した私はサロメさんの出を待つ事しか出来なかった。

 ――ドクンッ!

 彼女は刻印から視線を外し、サッと腰辺りに手を添える。なにかとんでない行動を取られるのではないかと、戦慄が走った。ところが……。

「え?」

 サロメさんは私の目の前に「ある物」を差し出してきた。それは「吸込口」だった。自分の予想とは遥かに超える出来事に私は目が点になった。

 …………………………。

 反応を示さない私となにも言わないサロメさんの間に、なんとも言えない沈黙が降りる。

「なにをしているのです? 早く受け取りなさい」

 数秒後、サロメさんの方から沈黙を破った。

「これがあれば吸引機が使用出来るでしょう?」
「え、あ、はい」

 私はイマイチな反応で吸込口を受け取った。サロメさんの言う事は尤もな内容ではあるけど……。

 ――えっと、これはどういう事?

 サロメさんは全く刻印の事には触れてこない。まるで初めから見ていないとでもいうようにだ。それでもっていきなり吸込口を渡されたものだから、どう反応を返したらいいのかわからない。

「ここは多くの王族の方々が通られる回廊です。すみやかに泡を吸引して自分の持ち場に戻りなさい。いいですね?」
「は、はい」

 サロメさんは完全に仕事モードだ。そんなすぐには切り替えが出来ないと思ったが、ここは彼女の言う通りにした方が良いという事だけは判断した。私が吸引機で掃除を始めるとサロメさんは背を向け去って行った。彼女が刻印をどう思ったのか謎のまま……。

「という出来事がありました」
「そうか……」

 そう一言殿下は感慨深い様子で応えた。刻印の件は私の失態になるのだろうか。そう思えばズンとまた新たに気が重くなった。そこに……。

「なんだ、そんな事だったんだ」
「え?」

 ――なに今の? そんな事って?

 私は顔を上げた。今の大した事もないとでも言うようなグリーシァンの口調に、私はポカンとなる。

「君があまりにも蒼白とした様子だったから、よっぽどの事があったんだろうと思って、わざわざ殿下をお呼びしたのに、とんだご足労をかけてしまったじゃないか」
「はい? イマイチ意味がわからないんですが?」

 なんで殿下の事を出されて叱責を食らっているのか、意味がわからない。

 ――なにが言いたいんだ?

「今更の話じゃない? ジュエリアは常に君の行動を監視している。とっくに刻印の存在なんて知られているでしょ。仮に侍女長がジュエリアでなかったとしても、彼女は人の魔力について干渉してこないだろうね。必要以上の事には首を突っ込まない主義の人だから」 「それは……そうかもしれませんけど」

 ――そんなアッサリな話でいいのだろうか。

 大事おおごとだと叱責されるよりは遥かに良いのはわかっているけれど、けっこう拍子抜けというか。ここに来るまでの私は生きた心地が全くせず、ずっとビクビクと怯えてジュエリア探しにも身が入らなかった。

「ヒナからしてみれば、気が気ではなかったのだろう。ヒナが懸念しているほど、重く捉えなくていい。もう侍女長に見られた刻印の件は忘れて次の事を考えれば良い」
「殿下……」

 ――やっぱり殿下は人の気持ちをよくわかる人だ。

 殿下の優しい言葉と微笑に、ようやく荒波を打っていた心が落ち着きそうだ。

 ――大事に至らず、本当に良かった。

 私はホッと安堵の溜め息をついた。

「それにしても、刻印を目にしてもなにも反応を示さない侍女長は強者だな。ジュエリアであってもなくても、なにかしら反応があってもいいんだがな」

 今のアッシズの言葉は最もだ。サロメさんはあの時、私の刻印を目にしても、なにも反応を示さず、まるで人形のように情味を感じさせなかった。

「確かに侍女長がジュエリアで、かつ刻印が浮き出る意味を知っていた場合、自分の魔力を目の前で見られても動揺しないのはさすがだね。ジュエリアでなかった場合でも、元々魔力のない君から刻印が浮かび上がるなんてオカシイ話だし」

 アッシズの言葉に、グリーシァンも同意見のようだ。

「一先ず、刻印の件は置いて、せっかく殿下に起こし頂いていますので、明朝のミーティングにお話しする予定であったあの件を今の内に話しておきませんか?」

 グリーシァンはごく自然な流れで話題を変えて殿下を促した。

「そうだな。では例の兄上とサロメ侍女長を二人っきりにさせる策を話して行こうか」

 空気がピリッと変わる。殿下の言葉に、私はゴクリと喉を鳴らした。





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